元祖テニスタレントの父「石黒修」の死に際とは?
この記事では石黒修の晩年と死に際について解説していきます。
「石黒修」とは?簡単に説明
「石黒賢」氏の父親として有名なのは勿論のこと、「神和住純」氏と並ぶ日本テニス界のパイオニアだと言っていいでしょう。
当時の国内におけるテニスのポジションがハイソな層がだった事を印象づけるかの如く「松岡修造」氏の父、元東宝名誉会長の「松岡功」氏が2年先輩で旧知の仲であったのは奇妙な縁と言えるでしょう。
男子国別対抗戦のデビスカップで見せた奇跡的勝利は日本テニス界の伝説と言っていいでしょう。
「石黒修」の晩年
日本テニス協会の要職につきながらも生涯現役を貫き、いわゆるシニア、テニスでいうベテランの部に参戦しています。
1991年の全日本ベテランテニス選手権55歳以上のシングルで優勝したのをはじめ、90年代は生涯現役の言葉通り全日本ベテランテニス選手権のダブルス部門において数々のタイトル、入賞を果たしています。
さすがに00年代に入って以降は各種大会の優勝や上位入賞からは姿を消していますが、プレイヤーとして楽しむテニスを続けていたのは間違いないと言えるでしょう。
「石黒修」の死に様
2016年11月9日5時50分に入院先の都内の病院で死去。
80歳没。
死因は腎盂癌によるものだとされています。
「石黒修」の死に様の信憑性
死去時の会見に次男の賢氏がマスコミ対応しており、信憑性は高いと言えるでしょう。
2014年に腎盂癌が発覚して闘病生活が始まりましたが、転移の速度はそれほどではないにせよ、肝臓や脳といった多臓器への転移を止めることはかなわずに入退院を繰り返して治療にあたった3年間だった事も明らかにされています。
またその容態急変は突然のものであったとされ、前日11月8日にはまだ会話ができる状態にあった事も明かされました。
日付が変わって以降に容態が急変してしまったため、賢氏は最期の刻に間に合わなかったと悔恨の表情で会見に応じています。
まとめ
2016年11月9日5時50分、東京都内の入院先にて逝去。
80歳没。
死因は腎盂癌だと公表されています。
原発となったのは3年前に罹患した腎盂癌ですが、肝臓や脳をはじめとした多臓器へと転移に歯止めをかける事ができませんでした。
亡くなったのは突然の事で8日も親族が面会。
その際には会話ができるほどだったそうです。
日付が変わってから容態が急変したため、最期の刻に次男の賢氏は間に合わなかったと明かしています。
修氏も幾つかのCMに出演した公人であり、次男の賢氏が俳優であるため通夜の際に会見が行われました。
そのため死に際の信憑性は高いと言っていいでしょう。