武士の魁、新時代の旗手と呼ばれた「源義家」はどのような最期を迎えたのでしょうか?
この記事では「源義家」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます
「源義家」とは?簡単に説明
源義家という名前はもちろん有名なのですが、戦国時代の武将、軍記、軍談が好きな方にとっては「八幡太郎」という言葉を見かけることが多いはずです。
武士にとっての理想、象徴として名前があがり、有名武将から末端の武士までが、少年時代には憧れる、アイドル的存在だったと言っていいでしょう。
また子孫の源頼朝や足利家は逆に自身の正統性や権威、武威を高めるのに義家を利用しました。
「源義家」の晩年
後三年の役に介入して勝利を納めたものの恩賞はなく、これでケチがついたのか義家の晩年は決して順風満帆なものとはなりませんでした。
なぜならば弟義綱が摂関家に近重されるようになり、対立の構図が描かれるようになったことが第一に挙げられます。
次いで新興勢力が台頭した時に起こりがちな一族のトラブルに頭を悩まされることになっていきます。
貴族の家来の立場から独立したことで傲った部分もあるのでしょう。
嫡男である「源義親」に至っては二度のトラブルを起こし、頭を悩ませます。
さらには四男「源義国」と6歳下の弟「源義光」との常陸合戦が起こり捕縛命令が出て、一門衆を自分の手で裁かなくてはいけない状況になってしまいました。
1098年にようやく正四位下に昇進、院昇殿を許されたのが、僅かな喜びだったと言えるのかもしれません。
「源義家」の死に様
度重なる一門の不祥事、それに対して捕縛命令が出るなど一門を自分の手で裁かなくてはいけないストレスが身体の負担になったのかもしれません。
常陸合戦で四男・義国を召進、実弟義光にも捕縛命令が出てからほどなくした1ヶ月後の7月15日に義家はその生涯を閉じることになります。
享年68歳のことで、死因や死に際については特に語られた史料が残されていないのが現状です。
「源義家」の死に様の信憑性
軍記や軍談物と言った類いには当然ながら義家の逝去について書かれたものがありますが、創作要素も強く信憑性はそれほど高くないと言っていいでしょう。
信憑性の高さでいえば、平安時代後期の従一位、右大臣である藤原宗忠の公卿日記「中御門右大臣の日記」である『中右記』が抜けて高いものと思われます。
特色としては人物の死亡時に『日本書紀』のような略伝を記載していることでしょう。
「義家」の死亡時も例に漏れず「中右記1106年7月15日条」に「武威天下に満つ、誠に是れ大将軍に足る者なり」と記載。
この1106年7月15日条により生年も逆算されるほどの信頼性が中右記にはあります。
まとめ
武士の棟梁や武門の誉れなどのイメージは子孫の源頼朝によるプロパガンダで一気に膨れあがった面も大きく、武家以外からは辛辣な評価が残されている史料も見受けられます。
さらにそのイメージを同じく子孫の足利家が幕府の正統性『源威集』で膨らめられたと言っていいでしょう。