「北条氏政」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「北条氏政」の死に際とは?日本の人物

一族最大の勢力版図を築き上げながらも、当代で一族を滅ぼした暗愚とも評される「北条氏政」はどのような最期を遂げたのでしょうか?

この記事では、「北条氏政」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。

「北条氏政(ほうじょう うじまさ)」とは?簡単に説明

「北条氏政」は相模国(現在の神奈川県)を支配した戦国大名・後北条氏4代目当主です。

「相模の獅子」とも称される「北条氏康(ほうじょう うじやす)」の次男でもあります。

父と共に越後の龍「上杉謙信」や甲斐の虎「武田信玄」、里美氏を相手取り戦を繰り広げました。

父の死後は、当時、頭角を現わしていた「織田信長」へ臣従し、実権を握ったまま家督を嫡男「北条氏直(ほうじょう うじなお)」に譲ります。

やがて、「本能寺の変」「織田信長」が死すると、「天正壬午の乱」や緒戦を経て、後北条氏最大の版図を築き上げました。



「北条氏政」の晩年と最期

「本能寺の変」の後、「豊臣秀吉」が台頭するようになります。

天正16年(1588年)に「秀吉」より聚楽第行幸への列席を求められ、「北条氏政」はこれを拒否しますが、弟「北条氏規(ほうじょう うじのり)」が名代として上洛したことにより関係は落ち着きました。

天正17年(1589年)に「秀吉」「沼田裁定」により、沼田領が割譲され、それまでの真田氏との所領争いに一旦決着がつきます。

しかし、同年に北条家臣「猪俣邦憲(いのまた くにのり)」が真田領の名胡桃城を奪取しました。

この事件の責任として「秀吉」は首謀者の処罰と上洛を要求しますが、「北条氏政」は上洛を引き延ばしました。

これに対して、「秀吉」はついに天正18年(1590年)「小田原征伐」のために軍を起こします。

20万以上の豊臣軍を迎撃するも、領内の諸城を相次いで落とされた後、北条氏は条件付きで降伏しました。

しかし、「秀吉」は降伏条件を反故にし、「北条氏政」や北条家臣に切腹を命じます。

そして、同年7月11日に「北条氏政」は切腹し、戦国大名としての後北条氏も滅亡を迎えます。

享年53歳でした。



「北条氏政」の死に様の信憑性

「小田原征伐」を招いた責任として、「秀吉」の命により切腹しました。

「北条氏政」の逸話

「北条氏政」を象徴するエピソードとして下記の2つが有名ですが、いずれも創作の可能性を指摘されています。

汁かけ飯

食事の際、「北条氏政」が飯に汁を1度かけ、足りなかったので2度かけました。

これを見た父「氏康」「毎日食事をしているのに、飯にかける汁の量も量れないとは・・。

北条家も自分の代で終わりか・・」
(汁の量も量れないのに、領国や家臣のことを推し量れるわけがない)と嘆いたとされています。

後世の著作であり武田氏を主軸においた創作作品「甲陽軍鑑」では、「北条氏政」は農民が刈り取っていた麦を見て「あの麦で昼飯にしよう」と言ったと記されています。

育ちが良いため、麦飯が出来る過程すら知らない「北条氏政」を、それより身分の低い「武田信玄」が見下げるという話です。

まとめ

「北条氏政」は後北条氏4代目当主であり、相模の獅子「北条氏康」の次男でもあります。

上杉氏や武田氏と関東で戦いを繰り広げた後、「織田信長」に臣従しますが、「本能寺の変」が起こると勢力を拡大していき、後北条氏最大の版図を築き上げました。

しかし、台頭する「豊臣秀吉」に抵抗したことが「小田原征伐」を招き、争いの末、降伏しました。

「秀吉」の命により、天正18年(1590年)7月11日に切腹して果てます。

享年53歳でした。

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