「一条兼定」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「一条兼定」の死に際とは?日本の人物

一条兼定は土佐の戦国大名で、キリシタンの一人としても知られています。

一条兼定の晩年と最期を紹介します。

一条兼定とは?

一条兼定は土佐一条家に生まれ、父である一条房基が亡くなったため7歳の時に家督を継ぎました。

祖父の弟で関白となっていた一条頼道が後見役を務め、元服すると土佐の中村城を拠点とします。

大友宗麟の娘を妻とし、大友氏と連携を強めました。

しかし、土佐では長宗我部元親が台頭し、領土を侵食されるようになります。

家臣たちの信頼を失って、隠居させられました。

一条兼定の晩年

一条兼定は、一条家の家臣たちによって追放されてしまいます。

家臣たちは、長宗我部元親と通じていました。

家督は兼定の子である一条内政が継いでいますが、実質的に支配していたのは長宗我部元親といわれています。

兼定は舅である大友宗麟を頼って豊後に行きます。

土佐を取り戻すべく兵を募り、土佐一条氏の家臣であった加久見城主の加久見左衛門の協力を得て兼定を追放した家臣たちを討伐します。

しかし、それが逆に長曾我部元親の介入を許すことになり、長宗我部氏に占領されてしまいました。

その後に大友氏の力を借りて土佐に進撃しますが、長宗我部氏との四万十川の戦いに敗れます。

兼定は逃げ延びますが、勢力を回復することはできず戦国大名としての土佐一条氏は消滅することとなりました。

一条兼定の最期

一条兼定はキリシタンであった大友宗麟の影響で、キリスト教に入信します。

宣教師のジョアン・カブラルから洗礼を受けました。

洗礼名はドン・パブロといいます。

四万十川の戦いに敗れた後は、瀬戸内海の戸島で隠遁生活を送ります。

戸島では旧臣に暗殺されかかって重傷をおったりもしています。

信心深く穏やかな生活を送っており、戸島において病を得て亡くなりました。

享年43です。

一条兼定をめぐる逸話

土佐一条家は、公家の五摂家の一つである一条氏に縁のある名家です。

一条家の一人が応仁の乱を避けて土佐にやってきて、土着したことで土佐一条家が誕生しました。

兼定が土佐を追われることになったのは長曾我部元親に通じた家臣たちによるものですが、一条家も関わっていたといいます。

京都の一条家の当主である一条内基は、土佐一条家が戦国大名となるのを望んでいませんでした。

兼定には権中納言の地位を与えて隠居させ、土佐の支配権は長宗我部氏に譲っても良いと考えたのです。

そうすることで一条家の権益を守ろうとしました。

土佐一条氏の家臣たちが兼定を追放したのは、そういった事情もあったと考えられます。

一条内基は土佐を訪れ、兼定の隠居に伴い家督を継いだ内政の元服の儀式を執り行ってもいます。

まとめ

一条兼定は公家の血をひく土佐一条家に生まれますが、長宗我部氏の台頭により土佐を追われることとなりました。

大友宗麟の影響でキリスト教に入信しています。

長宗我部氏との戦いで大敗した後は瀬戸内海の戸島で隠遁生活を送り、43歳で亡くなりました。

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