「空海」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「空海」の死に際とは?日本の人物

「真言宗」の開祖として知られる「空海」はどのような最期を迎えたのでしょうか?

この記事では、「空海」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。

「空海(くうかい)」とは?簡単に説明

「空海」とは、平安時代の僧であり、「真言宗(しんごんしゅう)」の開祖とされる人物です。

「醍醐天皇」から賜った諡号(しごう:贈り名)である「弘法大師(こうぼうだいし)」とも呼ばれています。

修行中に「密教」と出会い、「密教」を学ぶために「遣唐使」として「唐」(現在の中国)へ渡りました。

それから約2年後の大同元年(806年)に日本へ帰国し、大同5年(810年)に「真言密教」の布教が許されます。

そして、弘仁7年(816年)に「高野山・金剛峯寺(こんごうぶじ)」「真言密教」の道場を開創しました。



「空海」の晩年と最期

天長8年(831年)の5月末に病気を患い、翌天長9年(832年)の8月22日に、「万灯万華会(まんどうまんげえ)」と呼ばれる高野山で初めての法要が開かれます。

この時、「空海」「虚空(こくう)尽き、衆生(しゅじょう)尽き、涅槃(ねはん)尽きなば我が願いも尽きん」という想いを告げ、秋から高野山にて隠棲します。

承和2年(835年)の3月15日、死期を悟った「空海」は弟子たちに「3月21日の寅の刻(午前3時から午前5時頃)に入定し、弥勒菩薩のいる場所へ往生して、56億7千万年後に、弥勒菩薩と共にこの世へ戻って来るだろう。

それまでの間は、天より仏道に励む者たちを助けるであろう」
という遺言を残しました。

「入定(にゅうじょう)」とは、「生死の境を越えて、永遠の瞑想に入る」という意味です。

そして、遺言通り、同年3月21日の午前4時頃に「入定」します。

享年62歳でした。



「空海」の死に様の信憑性

「真言宗」では、「空海」は現在も「入定」していると信じ続けられています。

一方、「空海僧都伝」の記述によれば、死因は病死とされており、「続日本後紀」では、遺体は火葬されたとの記述があります。

「空海」の入定伝説

「空海」は遺言に残したように、人々を救済するための永遠の瞑想に入り、今なお「高野山・金剛峯寺」の弘法大師御廟にて「入定」していると信仰されています。

「入定」から100年以上後、真言宗僧「仁海(にんかい)」の著作によれば、「空海」の遺体は変色もせず、髪や髭が伸び続けていたという記述があります。

また、「入定」後も諸国を渡り歩いていたという説もあるようです。

まとめ

「空海」とは、平安時代の僧であり、「真言宗」の開祖とされる人物です。

「遣唐使」として「唐」へ渡り、「密教」の教えを習得した後に帰国し、布教と共に「真言宗」を開創しました。

承和2年(835年)の3月21日に62歳で「入定」します。

記録によれば病死ともされていますが、「真言宗」では、「空海」は今も高野山で「入定」していると信じられています。

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