「加藤友三郎」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「加藤友三郎」の死に際とは?日本の人物

加藤友三郎は第21代内閣総理大臣に就任しますが、その在任中に亡くなりました。

加藤友三郎の晩年と最期がどのようなものだったのか紹介します。

加藤友三郎とは?

加藤友三郎は、広島藩士であった加藤七郎兵衛の三男として誕生します。

1884年に海軍兵学校を卒業すると、日清戦争では巡洋艦吉野の砲術長として従軍しました。

日露戦争では日本海海戦に参加しており、参謀長として勝利に貢献しています。

その後は海軍次官や呉鎮守府司令長官、第一艦隊司令長官などを歴任しました。

1915年に海軍大臣に就任すると、第二次大隈内閣・寺内正毅内閣・原敬内閣・高橋是清内閣において海軍大臣を務め続けました。



加藤友三郎の晩年

1921年に行われたワシントン会議には、日本を代表する全権委員として参加します。

ワシントン会議は第一世界大戦後にアメリカの呼びかけで開かれた軍縮会議で、9か国が参加しました。

この際、加藤はアメリカ発案の軍縮案に積極的に賛成し、好戦国とみられていた日本のイメージを大きく変えています。

その姿勢は海外の記者からも高く評価されました。

そして1922年に、加藤は内閣総理大臣に就任します。

加藤は広島藩の出身ですが、薩摩藩と長州藩出身ではない軍人が首相となったのは加藤が初めてになります。

この時、海軍大臣も兼任していましたが、翌年には海軍大臣は辞任しています。

私生活では大変家族思いであったようで、孫と一緒に笑顔で写る写真も残されています。

海外からも孫に宛ててこまめに手紙を送ってもいました。



加藤友三郎の最期

加藤友三郎は、内閣総理大臣在任中の1923年8月に病によって亡くなります。

享年63でした。

死因は患っていた大腸がんで、悪化したため急逝してしまいました。

加藤友三郎の死について

加藤友三郎は、海軍でも酒豪として知られていました。

昔からお酒が大好きで、痩身の体に似合わぬ酒量で驚かれたといいます。

しかし、加藤が大腸がんで急逝した折には、その飲酒が原因となったのではないかと囁かれました。

実際、飲酒は大腸がんや食道がんに強い関連性があるとされ、飲酒量が増えると罹患するリスクが上がることが分かっています。

加藤友三郎の死後

加藤友三郎が急死した8日後、日本は関東大震災に見舞われます。

関東に甚大な被害をもたらした関東大震災では、政府の機関が集中する東京も大打撃を受けました。

それにより国家機能が麻痺してしまったといいます。

加藤の死により、内閣総理大臣不在でこの異常事態を迎えたことになります。

外務大臣であった内田康哉が、次の内閣が発足するまでの間臨時で震災対策の指揮を執りました。

まとめ

加藤友三郎は海軍軍人として功績を上げ、第21代内閣総理大臣に就任します。

在任中に大腸がんが悪化して、急逝しました。

享年63です。

加藤の死から8日後に関東大震災が発生し、日本は内閣総理大臣不在という異常事態の中で難局に対応することになりました。

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