足利義輝は室町幕府の第13代将軍で、失っていた足利幕府と将軍家の権威を取り戻そうとした人物です。
その晩年と最期について紹介します。
足利義輝とは?
足利義輝は、第12代征夷大将軍であった足利義晴の嫡男として誕生します。
1546年に11歳で父から譲られ将軍の地位につきました。
しかし、戦乱が続いた影響により足利幕府と将軍家のの権威は失墜しています。
実権を握ったのは畿内に一大勢力を築いていた三好氏の当主である三好長慶です。
足利家と三好氏は、戦と和睦を繰り返しました。
三好氏と和議を結んだ足利義輝は、京都で自ら政治活動を行うようになります。
傀儡となることに不満を感じていたことが分かります。
足利義輝の晩年
幕府と足利将軍家の権威を取り戻すことを目指していたのが足利義輝です。
諸国の戦国大名達と交流し、自らの字を名前にに与えるなど懐柔しようとしたのです。
上杉輝虎(上杉謙信)には「輝」の字を与え、関東管領就任の許可も出しています。
尾張の織田信長や美濃の斎藤義龍といった戦国大名にも謁見しています。
ただし、義輝が京都で独自の政治を始めても、三好長慶の権勢は衰えてはいませんでした。
ところが1564年に三好長慶が病死すると、足利義輝はこれを好機ととらえさらに政治的な活動を活発化させます。
三好氏は長慶の息子である三好義継が跡を継ぎました。
義継は操りやすい将軍を擁立しようとしますが、自ら政治を行いたいと思っている義輝とは反目します。
足利義輝の最期
1568年、三好義継と松永久通が、1万人もの軍勢を結集して足利義輝のいる京都二条御所を襲撃します。
永禄の変と呼ばれる事件です。
自分達が劣勢であることを悟った義輝は、二条御所で最後の酒宴を催したと言われています。
義輝の辞世の句も残されており、死を覚悟していたことが伺えます。
義輝は自ら薙刀を持って三好の兵と戦いますが、一斉に襲い掛かられて亡くなりました。
その際、刀をふるったとも伝えられています。
ただし、自害したという説もあり、義輝の最期についてははっきりしたことは分かっていません。
享年30でした。
足利義輝をめぐる逸話
足利義輝が亡くなったのは二条御所ですが、これは義輝が自ら築いた屋敷でした。
三好氏に襲撃された時にはまだ完成していなかったといいます。
襲撃した三好義継や松永久通は、二条御所の門扉がつく前を狙って襲撃したといわれています。
足利義輝の家族
足利義輝の正室だった女性は、実家である近衛家に送り返されています。
しかし、側室で義輝から寵愛を受けていた小侍従局は、三好氏の兵によって殺害されています。
小侍従局はどさくさに紛れて身を隠したけれど、捕らえられ斬首されたともいわれています。
義輝の生母である慶寿院も自害に追い込まれました。
まとめ
足利義輝は足利幕府と将軍家の権威を復活させるべく、積極的に政治活動を行っていました。
しかし、傀儡政権を望む三好氏に疎まれ、二条御所で襲撃を受け亡くなります。