「毛利元就」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「毛利元就」の死に際とは?日本の人物

毛利元就」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「毛利元就」とは?簡単に説明

毛利元就といえば「三本の矢」「三子教訓状」はもとより昨今では各種、創作物や歴史ゲームで知力、謀略、戦略に長けているキャラクターとして人気の高い武将です。

また陳腐な表現ですが、“一代の祖”として毛利家の所領を拡大した人物でもあります。

領土拡大はすれど野心家ではなく天下は望まない、また気配りの人など人徳のある“説教家”だったとも言われています。



「毛利元就」の晩年

嫡男「毛利隆元」を後継に院政を敷いていた元就。

しかし隆元が毒殺され後継が11歳で幸鶴丸(輝元)が元服前のため後見につきますが、既に67歳。

元服した折りには隠居を宣言するも、輝元の説得でこれを断念しますが、古希を超え71歳となり身体が思うようについてきませんでした。

69年の立花合戦では生涯で最後の出陣を行うも多々良浜の戦いで敗戦してしまいます。

以降も元就は体調悪化で臥せることも多くなりました。

歴史に残る史料の記載では晩年の10年はほぼ毎年病で寝込んでいるため、67年に輝元に懇願されて隠居はしませんでしたが…切に願っていたものと思われます。



「毛利元就」の死に様

69年には病身をおして小早川、吉川の両川を率いて破れた元就は吉田郡山城で輝元と息子の出陣を見送り、仇敵の襲来に備えます。

しかし夏の終わりにかけての体調悪化が秋には重体となり寝込んでしまうのでした。

激励の書状を送れるほどに冬前には回復したものの、やはり体調は不完全。

71年の春は体調も良く過ごしていたのですが、立夏のころにはまたも寝込んでしまいます。

ほぼ一月でさらに体調は悪化、6月13日に激しい腹痛を訴えて危篤に陥り、翌日の午前中に息を引き取っています。

享年75歳で死因は老衰とも食道がんとも言われています。

「毛利元就」の死に様の信憑性

元就の死に様に関しては、多数の記載が残っており、死後の書状のやり取りを見てもその信憑性の高さは間違いないでしょう。

また大正初期の毛利家内に発足した三卿伝編纂所の編纂した「毛利元就卿伝」「毛利家文書」にも記載されている通り死に様やその後の事後処理の記載からもそれは明らかです。

ただ死因の老衰、食道がんについてはやや信憑性が落ちると思われます。

晩年の10年はとにかく病気の記載が多く重篤な状態に陥ったことも都合3度ほどあるからです。

まとめ

元就の晩年は病との戦いだったと言っていいでしょう。

それ由縁に思いがけなく生まれた副産物として領国内での医療体制が整備されたのは、あまり知られていません。

足利義輝の時代に紹介された戦国時代の医聖「曲直瀬道三」が専門医・専従医不足の医療体制と道三流医術を広めました。

病気で出陣するのも厳しいこともあったがためでしょうか、この毛利領国内での医療体制の確立は息子の両川ならびに輝元に残した晩年の最大の功績だったと言えるはずです。

タイトルとURLをコピーしました