森有礼は明治時代の政治家で、初代文部大臣となり教育制度を確立するのに貢献した人物です。
その最期は、国粋主義者によって暗殺されるという悲劇に見舞われました。
森有礼の晩年と最期について紹介します。
森有礼とは?
森有礼は薩摩藩の生まれで、藩の命令によってイギリスとアメリカに留学します。
その際、アメリカの神秘主義者で宗教家でもあったトマス・レイク・ハリスに出会い、キリスト教に関心を持ったといわれています。
帰国後は明治政府に迎え入れられ、清国公使や英国公使を歴任しました。
福沢諭吉や西周らと共に明六社を結成してもいます。
明六社は、日本で最初の啓蒙的学術団体として知られます。
森有礼の晩年
1885年に内閣制度が成立すると、森有礼は第一次伊藤内閣の元で初代文部科学大臣となります。
そして、精力的に日本の教育政策に携わり、学制改革に貢献しました。
小学校令・中学校令・師範学校令・帝国大学令といった学校令の制定に尽力し、教育制度を確立していったのです。
そのため福沢諭吉や新島襄、大木喬任らと共に明治六大教育家の一人に数えられています。
森有礼の最期
森有礼は1889年2月11日、国粋主義者であった西野文太郎によって暗殺されてしまいます。
その日は大日本帝国憲法発布の式典があり、森有礼はそれに参加しようとしていました。
官邸を出たところを西野文太郎に狙われ、わき腹を短刀で刺されたのです。
傷の手当は受けましたが出血が多く、翌日に死亡しました。
43歳という若さでこの世を去ったのです。
森有礼の死に関して
暗殺犯である西野文太郎がなぜ森有礼を狙ったのかについては伊勢神宮不敬事件が発端と言われています。
これは森有礼が伊勢神宮に参拝した際、拝殿にかかっている簾をステッキで払いのけたとされるものです。
実際にそういうことがあったのかは分かっていませんが、西野はその話を信じていたようです。
正義感から西野は森を許してはおけないという気持ちになりました。
西野は森を刺した際に護衛に追い詰められ、仕込み杖によって斬られています。
西野文太郎もその場で亡くなりました。
西野は23歳で、国粋主義思想が強い人物だったといわれています。
森有礼
森有礼は二度結婚しており、最初の結婚は広瀬常という女性としています。
婚姻契約書を作成し、それにお互いが署名して結婚したのです。
福沢諭吉が証人となりました。
これが日本における最初の契約結婚と言われています。
ただし、二人は3児をもうけましたが離婚しています。
森有礼はその後、岩倉具視の娘である寛子と結婚しますが、森が暗殺されてしまったので二人の結婚生活は1年半ほどしかありませんでした。
まとめ
森有礼は初代文部大臣を務めた人物で、積極的に教育制度の確立に関わっていました。
国粋主義者であった西野文太郎という人物の恨みを買い、短刀で刺されて暗殺されてしまいます。
まだ働き盛りの43歳という若さでした。