「毛利輝元」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈
「毛利輝元」とは?簡単に説明
「毛利元就」の後をついで毛利家当主についたのが「毛利輝元」で元就の本当の息子ではなく、弟・隆元の嫡男でした。
「織田信長」、「豊臣秀吉」、「徳川家康」、時代の覇者と同盟、敵対を繰り返しながらも、毛利家を守り抜き、「徳川家光」の治世まで世の移り代わりを見てきた戦国時代の生き字引的な存在とも言えるでしょう。
毛利家の所領を大きく減らしたことで貧窮しましたが、関ヶ原以降は本国に在て領国経営を支えました。
「毛利輝元」の晩年
大阪夏、冬の陣が終わり、家康も亡くなり世は天下泰平と言われる時代になりましたが、輝元に安寧な日々はきませんでした。
江戸城などの築城手伝普請、江戸藩邸の普晋、領国経営に苦心、また吉川家や福原家との家中融和にも腐心。
また長州藩主となった「毛利秀就」は江戸に滞在する機会が多いため、領国経営を輝元が中心として行っています。
19年安芸・備後国の大名「福島正則」が武家諸法度に違反したのを咎められて改易、さらには松平忠輝の改易などが起きたのも懸念したのでしょう。
同年8月、病身ながらと将軍・「徳川秀忠」に隠居するにあたり挨拶ならびに毛利家に対する謝意を改めて表明し、今後の毛利家を行く末を頼むのでした。
既に体調はかなり良くないようでしたが以降も御家を守るために輝元は奔走するのでした。
「毛利輝元」の死に様
19年夏の上洛は輝元にとって謂わば“終活”の一環であったと言えます。
毛利家のいく末を確かなものにするための活動の第一弾というべきものでした。
趨勢を読んで「土井利勝」と交渉の窓口とし、秀忠を立てたのは言うまでもありません。
21年11月には訓戒状を秀就に送り、毛利家の存続に対する当主の心構えを説きました。
23年秋には正式に家督を譲渡しています。
既にこの時も病気療養中の輝元でしたが、丁度一年後に内臓が悪化。
一度は持ち直すもののその後肉腫ができるなどめっきり弱り、25年4月27日18時前後に萩の四本松邸でその生涯を終えています。
享年73でした。
「毛利輝元」の死に様の信憑性
既に19年夏の上洛の際にも体調不良を起こし、秀忠らに体調を危惧され帰国を促された記録が残っており、このときから引き続いて内臓に病を抱えていたはずです。
この当時の霊薬を飲ませたことで回復した記載があり、薬効通りならば消化不良、胆汁の分泌機能不良があったと思われます。
最終的には腰に肉腫も発現していたようで死因は胃がん、胆がんの可能性が高いと言えるでしょう。
輝元の死に際の信憑性は三卿伝編纂所の編纂したものによるところが大きいです。
大正時代初期に東京の毛利邸に作られた三卿伝編纂所は「毛利元就」、「小早川隆景」、「吉川元春」の伝記編纂を目的とした編纂所ですが、のちに「隆元、輝元親子」、「吉川元長」もその対象に加えられました。
1936点にも渡る資料で信憑性の高さは随一です。
まとめ
輝元は晩年は体調不良に苦しみながらも、後顧の憂いを亡くすために尽力していたことは間違いありません。
それは藩経営から江戸の秀就のことまで多岐に渡っています。
輝元が非凡なのは最後の上洛にも見て取れ、福島正則が徳川家中で孤立しつつあった古老「本多正純」と主に交渉したのに対して、輝元は権力の中枢にあった利勝と主に交渉を重ねており、趨勢を見極め、潮流に沿って行動することで毛利家を後世に残すのでした。