「村山聖」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解説

「村山聖」の死に際とは?日本の人物

映画「聖の青春」で主人公のモデルとなった将棋棋士の村山聖(むらやまさとし)は、29歳という若さで亡くなっています。

今回は、天才棋士である羽生善治のライバルとも言われた彼の死因に迫ります。

「村山聖」とは?簡単に説明

昭和44年に広島県安芸郡で生まれた村山聖は、1990年代から2010年代頃までに将棋棋士として活躍した「羽生世代」のひとりであり、現役時代はその風貌から「怪童丸」という異名で親しまれていました。

わずか5歳で、腎臓の難病であるネフローゼ症候群を罹患し、病院の院内学級や外部の養護学校などで過ごしていた村山は、入院中に覚えた将棋にすぐにのめり込み、10歳になると将棋教室で頭角を現し始めますが、持病によりなかなかプロの道には進めない状態が続きます。

その後念願が叶ってプロ棋士になった村山は、自分の命を削りながらも順調にキャリアを積み、いつしかこの世代の棋士たちは「羽生世代」と呼ばれるようになります。

しかしながらその後、進行性膀胱がんを発症していることが発覚した村山は、手術でがんを取り除きますが、翌年には再発してしまい、29歳という若さで亡くなっています。



「村山聖」の死に様

わずか28歳にして進行性の膀胱がんを患った村山聖は、それまで住んでいた東京のアパートを引き払って、地元の広島大学病院に入院します。

入院してから数日後、8時間半もの大手術の末に腎臓の片方と膀胱を摘出した村山は、当時脳への悪影響を恐れて抗癌剤や放射線治療については、固辞し続けていました。

術後、一旦は退院して、将棋界に復帰し再び棋戦を戦い始めますが、そこから1年後にがんが再発してしまい、さらには各所に転移していたことから、休戦して1年間の療養生活に入ることを決意します。

その後、広島大学病院の名札も付いていない病室でひっそりと過ごしていた村山は、平成10年に29歳という若さで永眠しています。



「村山聖」の死に様の信憑性

罹患したがんの病苦に耐えながらも、棋士として戦い続けていた村山は、この時期、脱力感や血尿などに悩まされながらも対局を続け、死亡する前年に開催されたNHK杯では決勝まで勝ち上がり、永遠のライバルとも言える羽生善治との決勝戦に臨みました。

この対局に惜しくも敗れた村山は、羽生との対戦成績を通算6勝7敗とし、天才と称されていた羽生棋士とも遜色ない実力を備えていたことが証明されています。

村山が亡くなった1998年版の「将棋年鑑」では、自身の今年の目標に「生きる」と書き残していた村山でしたが、最期は病床で力尽きています。

「村山聖」の小ネタ等

幼いころから腎臓の難病であるネフローゼを抱えて生きてきた村山聖は、「生きているものを切るのはかわいそう」と言って、常に自身の顔は洗わず、歯も磨かず、爪を切るのも嫌がっていたと言います。

「怪童丸」という愛称は、その大柄な風貌に加えて、一切身だしなみには気を配らなかった彼の性質をも表している異名でした。

まとめ

奨励会入会からプロ入りまでわずか2年11か月という記録を打ち立てた村山聖棋士は29歳という若さで亡くなっています。

映画「聖の青春」において主人公のモデルにもなった彼が、短いながらも将棋界で残した数々の功績は、未だに語り継がれています。

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