「和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)」とは?
和宮親子内親王の晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。
「和宮親子内親王」とは?簡単に説明
和宮親子内親王は仁孝天皇の第8皇女で、孝明天皇の異母妹になります。
6歳の時、有栖川宮熾仁親王と婚約しますが、政情が不安な折り、幕府は「公武合体」の象徴として和宮と家茂の婚姻を提案し、散々もめた末に和宮の降嫁が決まります。
また、和宮は徳川家の存続も願い朝廷に訴えるなど、天璋院篤姫とともに徳川家の存続と江戸城無血開城に尽力したことでも知られています。
「和宮親子内親王」の晩年
戊辰戦争が起こると、朝廷との和解を望んでいた徳川慶喜は和宮にその仲介を頼みます。
慶喜の依頼は隠居、跡継ぎの選定、謝罪でしたが、このうち謝罪のみ引き受けて朝廷に嘆願書を送っています。
この時の嘆願書の送付先がかつて和宮の婚約者だった東征大総督の有栖川宮熾仁親王でした。
この嘆願書により「徳川家の存続も可能」との新政府からの回答を得、江戸城無血開城にもつながるのでした。
まさに和宮は、江戸を戦火から守った功労者の一人です。
その後、和宮はいったん1869年に京都に帰郷しますが、明治天皇の勧めで再び東京に戻っています。
「和宮親子内親王」の死に様
和宮は1874年(明治7年)に再び東京に戻りますが、この頃に脚気を患います。
夫の家茂と同様、甘い物好きが高じて症状を悪化させたと言われています。
そのため、1877年(明治10年)8月には元奥医師の遠田澄庵が勧めたこともあり、箱根塔ノ沢温泉に転地療養に行くことになります。
しかし、ほどなくして体調が急変し、同年9月2日に和宮は脚気衝心のため、療養先の塔ノ沢で薨去しました。
享年32歳でした。
「和宮親子内親王」の死に様の信憑性
和宮の死因は脚気衝心というのが最も有力な説です。
脚気はビタミンB1欠乏症の一つで、神経障害によって下肢がしびれる病気ですが、心臓機能の低下・不全も併発することから脚気衝心とも呼ばれています。
江戸時代になって玄米から精米されたビタミンB1を含まない白米を食べる習慣が広まったため、脚気で亡くなる人が広まります。
将軍家にも多く、家光、綱吉、家定、家茂なども脚気衝心が死因です。
和宮が療養していた塔ノ沢の人が和宮は脚気のためか「顔がひどく浮腫んでいた」という証言も残しています。
ただし、新たな死因説として「コレラ」が挙がっています。
実は和宮薨去の年は19年ぶりにコレラが大発生していたからです。
和宮の葬儀もひっそりと行なわれ、天璋院篤姫すら葬儀に参加していないことが根拠のようですが、これらが死因という確証はありません。
まとめ
皇女という立場でありながら、激動の幕末における徳川家や江戸の人々に大きな貢献をした和宮。
その死はあまりにも早すぎる死であり、寂しいものであったことが悲しみを募らせます。