「本多正純」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「本多正純」の死に際とは?日本の人物

「徳川家康」に父「正信」と親子そろって重用された「本多正純」

2代目将軍「徳川秀忠」の治世にて失脚してしまいますが、どのような最期を迎えたのでしょうか?

この記事では、「本多正純」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。

「本多正純(ほんだ まさずみ)」とは?簡単に説明

「本多正純」は、「徳川家康」の側近として仕え、江戸幕府では老中を務めました。

「家康」の参謀として活躍した「本多正信(ほんだ まさのぶ)」の長男でもあり、父「正信」「家康」へ反逆後、再び臣従した折、ともに仕えるようになります。

江戸幕府が開かれた後は「家康」に重用されるようになり、その後、晴れて下野国(現在の栃木県)小山藩3万3千石の大名となります。

「家康」の死後は、2代目将軍「徳川秀忠」の側近として仕え、宇都宮藩15万5千石の加増を受けますが、後に失脚し、「本多家」は改易されてしまいます。



「本多正純」の晩年と最期

改易(かいえき:武士の身分を剥奪し、領地などを没収する処分)後、「本多正純」は出羽国秋田藩の「佐竹義宣(さたけ よしのぶ)」に身柄を預けられます。

始めは手厚いもてなしを受けていましたが、それを知った江戸幕府は「本多正純」を嫡男「本多正勝(ほんだ まさかつ)」と共に出羽国横手城に幽閉しました。

幽閉された場所では、逃亡防止のため、四方に柵が設けられたり、襖(ふすま)や障子も板戸で囲われていたため採光が不十分でした。

外出も許されず、非常に過酷な生活を強いられた後、寛永14年(1637年)の3月10日に、幽閉先の横手城にて死去します。

享年73歳でした。



「本多正純」の死に様の信憑性

死因については不明で、定かではありません。

失脚に至った経緯

「正信」と親子2代に渡って「家康」に重用されていた「本多正純」でしたが、「秀忠」をはじめ、周囲から反感を買っていたと云われています。

やがて、「家康」と父が相次いで亡くなり、後ろ盾を失ったところで「秀忠」暗殺の目論み(宇都宮城釣天井事件)を含む11か条の罪状嫌疑をかけられてしまいます。

「本多正純」は11か条の嫌疑については弁明したものの、後に追加された3か条については弁明ができず、幕府より移封を言い渡されます。

しかし、「本多正純」は身の潔白を訴え、移封を固辞したため、これに「秀忠」は激怒し、「本多家」は改易となりました。

まとめ

「本多正純」は、「徳川家康」の側近として仕え、江戸幕府では老中を務めました。

「家康」の死後、2代目将軍「徳川秀忠」にも重用されますが、後に失脚します。

改易後に出羽国秋田藩の「佐竹義宣」に身柄を預けられますが、その後、出羽国横手城に幽閉されてしまいます。

一度の外出も許されない、過酷な幽閉生活の最中、寛永14年(1637年)の3月10日、幽閉先の横手城にて73年の生涯を終えました。

死因については定かとなっていません。

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