「北条早雲」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「北条早雲」の死に際とは?日本の人物

英雄か?梟雄か?関東における戦国時代の発端となり、戦国大名の先駆けとされる「北条早雲」

下剋上や国盗りでのし上がり、晩年まで戦に身を投じた末にどのような最期を迎えたのでしょうか?

この記事では、「北条早雲」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。

「北条早雲(ほうじょう そううん)」とは?簡単に説明

「北条早雲」は相模国を支配した後北条氏(鎌倉幕府執権の北条氏とは別家系)の開祖となった人物です。

下剋上や国盗りによって大名にのし上がったことから最初の戦国大名や、関東における戦国時代の発端となった人物とされています。

室町幕府の御家人でしたが、今川氏より駿河国の城を与えられ、城主となりました。

後に、足利政知(あしかが まさとも)の後継者争いに乗じて、「伊豆討ち入り」を決行し、伊豆国を奪取、平定します。

そして、明応4年(1495年)、もしくは明応9年(1500年)に大森氏から小田原城を奪取しました。

「北条早雲」の晩年と最期

小田原城奪取後、「北条早雲」は相模方面の制圧のため、扇谷上杉家や三浦氏を相手取って戦を繰り広げます。

永正9年(1512年)に「三浦義同(みうら よしあつ)」が守る岡崎城、住吉城を攻略し、三浦半島に追い込みます。

鎌倉を占領した後、「北条早雲」は扇谷家の救援を受けながら抵抗する三浦氏を滅ぼし、永正13年(1516年)に相模平定を成し遂げました。

相模平定後は、房総半島へ渡り、永正14年(1517年)まで上総国(現在の千葉県中部)の真里谷武田氏を支援するために転戦しました。

そして、家督を嫡男に譲った後、永正16年(1519年)韮山城にて死去しました。

享年には64歳と88歳の2つの説が挙げられています。

「北条早雲」の死に様の信憑性

死因については不明で、定かではありません。

「北条早雲」の名について

「北条早雲」はもともと伊勢姓であり、生前は「伊勢宗瑞(いせ そうずい)」と名乗っていました。

実のところ本人は「北条早雲」という名は使っていません。

「伊勢宗瑞」の死後、嫡男「北条氏綱(ほうじょう うじつな)」が伊勢姓から北条姓に改めたことで、「伊勢宗瑞」も出家後に称していた「早雲庵宗瑞(そううんあんそうずい)」からとって「北条早雲」の名称で呼ばれるようになりました。

まとめ

「北条早雲」は相模国を支配した後北条家の開祖となった戦国大名です。

もともとは室町幕府の御家人でしたが、下剋上や国盗りによって大名にのし上がり、最初の戦国大名や、関東における戦国時代の発端となったと人物とされています。

今川氏より駿河国で所領を与えられた後、伊豆国や小田原城を奪取し、永正13年(1516年)に相模国の平定を成し遂げます。

相模国平定後も永正14年(1517年)まで転戦し、永正16年(1519年)に韮山城にて死去しました。

享年には64歳説と88歳説が挙げられています。

死因については不明で、定かではありません。

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