詩人中原中也の死因とは?
「中原中也」とは?簡単に説明
明治40年に山口県山口市で生まれた中原中也は、代表作「汚れっちまった悲しみに」などで知られている有名な詩人です。
開業医であった名家の長男として誕生した中也は、わずか生後6か月で母と祖母と一緒に中国の旅順に渡り、その後も医師である父の転勤によって各地を転々とします。
中学校入学前には短歌を作り始めていた中也は、中学校に上がると短歌の会に参加し始め、仲間たちと共に歌集を発刊するほどのめりこんでいたと言います。
その後も、短歌や詩、時には翻訳などをしながら過ごしていた中也は、昭和8年に遠縁にあたる6歳下の上野孝子と結婚し、翌年の10月には長男である文也(ふみや)が誕生しています。
しかしながら昭和11年、1人息子である文也は小児結核を患い死去してしまい、同年12月に次男である愛雅(よしまさ)が誕生するものの、長男を失った悲しみは癒えることはありませんでした。
この時期から中也は幻聴に悩まされ、同時に幼児退行したような言動が目立ち始めたため、千葉県にある中村古峡療養所に一時的に入院しています。
そして昭和12年10月22日、急性脳膜炎により30歳で永眠しています。
「中原中也」の死に様
中原中也が29歳の時にわずか2歳にして長男が死んでしまい、その葬儀中に中也は長男の遺体を抱きしめたまま離さなかったと言います。
葬儀後四十九日を迎えるまで、中也は長男の位牌の前からを離れることができず、愛する長男の早すぎる死により精神が不安定になり、その後は心身をすり減らして、極度の神経衰弱に陥ってしまいます。
このころから幻聴に悩まされるようになっていた中也は、幼児のような言動をし始めるようになり、それと同時に痛風による左手中指の痛みを訴えるようになります。
悪化の一途をたどる中也の精神状態や体調に反して、彼の出した詩集や歌集は人気を博し続けますが、同時期に発生する視力障害や歩行困難によりさらに彼の状態は蝕まれていきます。
昭和12年10月5日、鎌倉駅前の広場で倒れた中也は翌日入院し、結核性の脳膜炎と診断されます。
そして入院中、少しずつ精神が混濁していき、10月22日わずか30歳でこの世を去ることになりました。
「中原中也」の死に様の信憑性
昭和12年、2歳の長男を失い激しい神経衰弱に陥ってしまった中原中也は、千葉県にある精神病院、中村古峡療養所に入院させられます。
同じくこの療養所に入所していた数多くの精神病患者たちは、療養所内でむきだしの狂気をさらけ出していたため、これにより中也はさらに気を病んで、精神を衰弱させていきます。
その後一旦は退院した中也でしたが、入院中に受けた多大なるショックにより、騙されて入院させられたと妻に迫って暴れだしたそうです。
同年の5月には、文芸雑誌「文學界」に「愛するものが死んだ時には、自殺しなけあなりません」という文章で始まる作品を発表した中也は、心身を休めるために故郷である山口へ帰郷することを考えていましたが、その後悪化し続けた体調が改善することはなく、30年の生涯に終わりを告げています。
「中原中也」の小ネタ等
中原中也が死亡してから約3ヶ月後の昭和13年1月、次男である愛雅も病死しています。
まとめ
中原中也の死亡後、河上徹太郎や大岡昇平などのかつての仲間たちが中也についての書籍を発表しており、また、中也の実の母である中原フクも中也の思い出をしたためた作品を発刊しています。
これらの事からも中原中也は30年という短い生涯ではありましたが、数多くの人々に愛されていたことがわかるでしょう。