「赤尾清綱」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「赤尾清綱」の死に際とは?日本の人物

「赤尾清綱」は、浅井三将の一人として浅井家に3代の間に渡って仕え、織田信長によって浅井家が滅ぼされるまで重臣として浅井家とともにその人生を過ごしました。

この記事では、「赤尾清綱」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈していきます。

「赤尾清綱」とは?簡単に説明

「赤尾清綱」は、1514年に近江国に生まれ、浅井亮政、浅井久政、浅井長政の浅井家三代に渡り仕えた重臣で、浅井家の城「小谷城」に存在した赤尾曲輪と呼ばれていた砦に、「浅井三将」「海赤雨三将」などと呼ばれていた海北綱親、雨森弥兵衛とともに住み込みで仕えていました。

浅井長政は、織田信長の妹であった「お市の方」を妻に迎えていたので、織田家と浅井家の関係は良好だと思われていましたが、浅井家と古くから関わりのあった朝倉氏が織田信長から攻められた事で状況が一変します。

浅井亮政が主だった時代に朝倉氏に大きな恩があった浅井氏と「赤尾清綱」は、織田信長との同盟より朝倉氏を優先し、浅井家と織田家の友好関係は敵対関係へと変わったのです。

織田信長とは、金ヶ崎の戦い、姉川の戦い、一乗谷城の戦いと幾度となく刃を交えますが、そのほとんどで敗戦し、一乗谷城の戦いでは共に戦ってきた朝倉氏は滅ぼされ、浅井家はいよいよ絶体絶命になったのでした。

「赤尾清綱」の死に様

織田家との戦いに負け続けていた浅井氏は、とうとう1573年に浅井家の城であった「小谷城」に織田軍が攻め込んできます。

「赤尾清綱」は主君であった浅井長政と共に城に立てこもり、徹底抗戦の構えを見せます。

しかし、織田軍の勢いに敵う事はなく、信長の妹のお市の方と娘たちを城から逃がした後、長年住処としていた赤尾曲輪にて「赤尾清綱」は討ち死にしました。

60歳でした。

「赤尾清綱」の死に様には諸説あり、主君であった長政の自害を見届けた後に自害したとされる説と、捕虜として織田軍に捕まり織田信長の目の前で斬首、または自害したとされる説があります。

この戦いで浅井家は滅亡しており、「赤尾清綱」は浅井家とともにその人生を過ごし、浅井家と共に自らも散ったのです。

「赤尾清綱」の死に様の信憑性

「赤尾清綱」の死に様には諸説ありますが、いずれも小谷城の戦いにて織田軍に敗れ、討ち死にしたという事は共通しています。

主君である浅井氏の繁栄に尽力し3代に渡り浅井氏を支え続けた武将として散った、「赤尾清綱」らしい最期だと言えるのではないでしょうか。

「赤尾清綱」の小ネタ等

「赤尾清綱」には虎千代(赤尾清冬)という子がいましたが、「赤尾清綱」の長年に渡る浅井氏への貢献が織田信長に認められ、豊臣秀吉の与力となっています。

敵の子であったとしても、忠義を果たしたその多大な功績を認め、殺さずに逃がすところが織田信長らしいと言えます。

まとめ

「赤尾清綱」は浅井家に尽くし、浅井家とともに散っていった武将です。

力を持っていた織田家との同盟よりも、浅井家として世話になった朝倉氏とともに戦う事を選択した結果、浅井家は滅亡してしまいますが、浅井家の名前は現在でも多くの人が知る事となっています。

その影には「赤尾清綱」という重臣がいた事を忘れてはなりません。

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