「緒形拳」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「緒形拳」の死に際とは?日本の人物

「緒形拳(おがたけん)」とは?

緒形拳の晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。

「緒形拳」とは?簡単に説明

緒形拳は東京出身の俳優で、長男の緒形幹太、次男の緒形直人も共に俳優です。

1958年に新国劇に入団し辰巳柳太郎の付き人になると、1960年には島田正吾によって「遠い一つの道」の主演に抜擢され映画デビューを果たします。

辰巳柳太郎と島田正吾は新国劇の二大看板といわれ、緒形は早くから超大物俳優二人に才能を買われていたのです。

1965年には大河ドラマ「太閤記」で主役、1966年も「源義経」の弁慶役と、2年連続で大河に出演し名を馳せます。

映画にも、「鬼畜」「八甲田山」「復讐するは我にあり」「楢山節考」などの名作に数多く出演しています。



「緒形拳」の晩年

緒形拳の晩年の8年間は病気との闘いでした。

緒形は2000年ころに慢性肝炎を患い、それから肝硬変を経て4~5年前に肝がんに移行します。

症状的には明らかに重症化の方向を示しており、病魔に蝕まれる一方だったようです。

しかし、家族には「肝臓の病気のことは誰にも言うな」と箝口令をひき、「病気を押して仕事に臨むことで絶対に病気に勝つ」と自分に言い聞かせていました。

その決意を貫くために、緒形はこの8年の闘病生活中、一度も長期入院しませんでした。

在宅治療を選択し、どんなに体調が悪くても点滴を受ける程度の通院・検査に止めており、抗がん剤治療も拒否していました。

食事も玄米菜食を徹底していたそうです。

遺作となったドラマ「風のカーテン」は3月から撮影が開始され、体調不良の中で緒形は北海道・富良野ロケにも参加していました。

また劇場用映画で遺作となったのは「ゲゲゲの鬼太郎/千年呪い歌」の妖怪ぬらりひょん役でした。



「緒形拳」の死に様

2008年10月4日の夕方、自宅で体調が急変し、腹部に痛みを訴えた緒形拳は、栃木県壬生市内の獨協医科大学病院に搬送されます。

肝臓から出血が確認され、肝臓が破裂していることがわかり、緊急手術となるのでした。

同月5日朝に手術を受けて一時持ち直しますが、夜になって急変、午後11時53分に息を引き取ります。

死因は肝がんで、71歳の生涯でした。

「緒形拳」の死に様の信憑性

病院内での死去により、信憑性は高いものと思われます。

最期は家族と親友の津川雅彦に看取られ亡くなったそうです。

この時、緒形の肝臓は破裂していましたが、意識を失う直前まで家族や津川と話をしていたそうです。

津川は自身のブログの中で緒形が「身体大事にしろよ、よい映画たくさん作ってくれ、病気が治ったらウナギの白焼き食いに行こう!」と危篤中の患者とは思えないような口調だったと語っています。

しかし、緒形はこの4時間後に息を引き取り、この時に語ったことが緒形の最期の言葉となりました。

まとめ

昭和を代表する稀代の名優である緒形拳。

大河ドラマは常連俳優といわれるほど出演回数が多く、またその演じた役どころはその偉人のイメージになってしまう演技力と影響力を持っていました。

「太閤記」の豊臣秀吉といい、「風と雲と虹と」の藤原純友といい、「毛利元就」の尼子経久といい、その偉人の名を聞くと緒形拳の顔が頭に浮かぶほどです。

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