戦後最強内閣の総理大臣「佐藤栄作」の散り際とは?
この記事では「佐藤栄作」の晩年と最期について解説します。
「佐藤栄作」とは?簡単に説明
在職日数が2798日と戦後2番目、歴代でも3番目の長さの首相だったのが「佐藤栄作」です。
終戦後3年目で内閣官房長官につき、戦後国難の時期の日本の中心に常にいた人物だと言っていいでしょう。
非核三原則を提唱、沖縄返還を実現、日本を高度経済成長に導くなど政権下で多くを為し得ました。
地味で内閣支持率は高くなかったと言われますが、タカ派政治家かつ辛口の「石原慎太郎」から戦後最強内閣と称されるなど、確かな手腕を見せていたと言っていいでしょう。
「佐藤栄作」の晩年
1974年夏、息子である「佐藤信二」氏が第10回参議院選挙に出馬したことにより、全国を奔走。
同年の12月には非核三原則の制定や沖縄返還に与したことでノーベル平和賞を受賞、現地で講演を行ったその足でソ連を初訪問しました。
明けて75年4月には親交のあった中華民国の「?介石」の葬儀に友人として出席しています。
プライベートでは長年の重責から解放され、時間の余裕も生まれたことからゴルフ三昧の日々を過ごしていました。
「佐藤栄作」の死に様
1975年6月3日0時55分に東京慈恵会医科大学附属病院でその生涯を終えています。
74歳没。
同年5月19日日本三大料亭『新喜楽』で政財界との懇談会の途中、トイレに向かうべく立ち上がるも横倒れになりました。
4日間料亭で静養するも昏睡状態のまま。
病院に運ばれて原因が特定。
後頭部の脳血管から出血したのが明らかになりました。
二週間昏睡状態を続け、6月2日22時30分に容態が急変。
帰らぬ人となりました。
「佐藤栄作」の死に様の信憑性
この当時「佐藤栄作」は内閣退陣時の記者クラブとの軋轢もあったため、好意的な記事を書かれることは多くありませんでした。
しかしこの時点で連続政権日数第1位、在任期間第2位、「岸信介」氏との兄弟宰相、在任時の高度経済成長、沖縄返還など話題には事欠かせず、死に様についてはこと細かに報道されており、信憑性は極めて高いと言っていいでしょう。
亡くなってから20年以上経過した1998年に『佐藤栄作日記』が出版。
倒れた前日までの日記が纏められていますが、脳溢血の前兆になるような記載は確認できませんでした。
まとめ
「佐藤栄作」は1975年6月3日0時55分に亡くなっています。
74歳没。
自身と政財界の繋がりである「長栄会」を高級料亭で5月19日に開催。
酒と歓談を楽しんでいる最中に横倒れになると、即いびきをかく典型的な脳溢血の症状を見せています。
夫人の要望で4日間料亭で静養するも状態は回復しなかったため、病院をへ搬送。
そこで改めて後頭部からの脳出血が確認されました。
昏睡状態を2週間続けた後の6月2日22時30分に容態が急変し、死亡が確認されています。