「武田勝頼」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「武田勝頼」の死に際とは?日本の人物

戦国時代、甲斐の国一帯を領有していた武田氏は、第20代当主であった武田勝頼の時代に終焉を迎えます。

武田勝頼の晩年とどのような最期を迎えたのかについて紹介します。

武田勝頼とは?

武田勝頼は、戦国武将として名高い武田信玄の四男として誕生します。

母親は信玄の側室であった諏訪御寮人で、誕生した当時は諏訪家を継ぐ予定でした。

しかし、兄達が病気で早世したり、謀反の疑いで廃嫡される等して武田家の家督を継ぐことになりました。

当時、軍事的に秀でた武将として評価されていたようですが、武田勝頼が関わる合戦として最もよく知られているのは長篠の戦いです。

長篠の戦いは、武田軍が織田信長と徳川家康の連合軍に大敗した合戦です。



武田勝頼の晩年

武田勝頼の運命は、、長篠の戦いで決定づけられたといっても過言ではないでしょう。

最強と謳われていた武田の軍勢を破ったことで、織田信長は天下統一の道をまい進していきます。

それに対して武田勝頼は、父から受け継いだ領土を次々と失うことになりました。

劣勢を跳ねのけるために上杉氏や北条氏との同盟を探りますが、越後の国の跡目相続に介入したことが裏目に出て北条氏を敵に回すなどその勢いは急速に衰えていきました。

また、家臣同士の争いも起こり、上手く足並みを揃えることができません。

それが内通者を生むことになり、窮地に追い込まれていきます。



武田勝頼の最期

武田勝頼が亡くなったのは、長篠の戦いから数年後のことでした。

天正10年、織田信長は徳川家康と共に勢力が衰えていた武田家の領国へと侵攻します。

甲州征伐あるいは武田征伐とも呼ばれており、武田氏を攻め滅ぼす一連の合戦が繰り広げられます。

武田の領地にある城は、織田信長の軍勢によって次々と攻め落とされていきました。

勝頼を見捨てていく者も後を絶ちません。

勝頼は織田信長の軍勢を迎え撃つため新府韮崎城を築いていましたが、完成する前にこの城に火をかけて逃げ出します。

武田氏ゆかりの地である天目山を目指しますが、その途中に捕縛され自害したと伝えられています。

享年は37際で、勝頼の嫡男と正室も一緒でした。

武田勝頼の死によって、武田家は滅亡したのです。

武田勝頼の死に様の信憑性

武田勝頼の最期は、江戸時代の軍記物などに華々しく自刃した様子が書かれています。

しかし、滝川一益の追手に討ち取られたという説もあり、詳しいところは分かっていません。

切腹するのであれば新府韮崎城であるのが自然で、家臣もそのように進言したともいわれています。

徳川勢の記録によれば挟み撃ちにあった勝頼を一刀の元に討ち果たしたという書かれているので、自害したというのは後世に話を面白くするために脚色されたものでしょう。

まとめ

武田勝頼の死は、戦国時代の悲哀をこれでもかというほどに体現しています。

織田信長と徳川家康の軍勢に攻め込まれ、追い詰められた先に待っていたのが死でした。

逃亡したところを討ち取られてしまったのです。

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