戦国武将・後北条氏の「北条氏規」とは、どのような歴史上の人物なのでしょうか?
おおまかな人生のあらましを簡単に解説して、その晩年・死に様について詳しく紹介していきます。
「北条氏規」とは?簡単に説明
「北条氏規(ほうじょううじのり,1545年~1600年)」は北条氏康の四男、氏政の弟に当たる武将で、幼少期は徳川家康らと共に今川氏の人質として過ごしました。
後北条氏に戻ってからは三崎城を拠点に、知己のある徳川家康や豊臣秀吉との外交折衝の役割を果たしました。
秀吉との交渉決裂後の「小田原攻め(1590年)」では、少ない兵で伊豆韮山城(いずにらやまじょう)を守りましたが、家康らの説得で降伏。
その後、秀吉から許されて河内国に所領を与えられました。
「北条氏規」の晩年
「北条氏規」の晩年は、豊臣秀吉の「北条氏征伐(1590年)」の後からになります。
北条氏規は秀吉の大軍勢に対して「伊豆韮山城」で守りに当たりましたが、約4万の敵勢に対してわずか3640ほどの軍勢で約4ヶ月以上も守り抜きました。
人質時代の旧知である徳川家康や軍師・黒田官兵衛から説得されて、韮山城を開城して降伏しました。
主君の北条氏政は自害して、その子の氏直は高野山に流されました。
氏規も氏直に従って高野山に入りましたが、秀吉から許しを受けて河内国に1万石近い領地を与えられます。
晩年は、長男・北条氏盛(氏直の養子)を支えて過ごしました。
「北条氏規」の死に様
「北条氏規」は「小田原攻め(1590年)」によって、主家の後北条氏を滅ぼされます。
当主である兄の北条氏政は切腹して果て、氏政嫡男の氏直は高野山金剛峰寺に追放されましたが、氏規も氏直に従って高野山で「一睡」と号して出家しました。
翌1591年に秀吉からの許しを得て、さらに河内国丹南郡2000石を与えられ、文禄3年(1594年)にも河内国河内郡6980石に封ぜられています。
氏規よりも先に氏直が亡くなり、氏規は子の北条氏盛(初代の狭山藩主)を補佐していましたが、「関ヶ原の戦い」が始まる前の慶長5年(1600年)2月8日に病気で亡くなりました。
享年56歳。
「北条氏規」の死に様の信憑性
「北条氏規」は豊臣秀吉による「小田原征伐」の際に開城・降伏して高野山に出家しました。
その後、秀吉に許されて、天正19年に河内国に8980石の所領を与えられています。
同じ天正19年(1591年)に、氏規の子の北条氏盛が早死にした氏直の所領を継いで、実質的な狭山藩初代藩主となります。
氏規の子・氏盛が狭山藩主としてつとめを果たしていることから、氏規が慶長5年(1600年)2月8日に何らかの病気が原因で死去したことには信憑性があります。
氏規のお墓が大阪府の「専念寺」に残されていて、法名の「一睡院殿勝譽宗円大居士」と共に死んだ年の没年の記録もあるからです。
まとめ
「北条氏規」の大まかな人生の流れと晩年・死に様について分かりやすく解説しましたがいかがでしたか?
「北条氏規」は慶長5年(1600年)の2月8日、56歳で何らかの病気で命を落としましたが、具体的な病名が何かについては史料に記録が残っていません。
「北条氏規」の死に様について詳しくリサーチしたいときは、この記事の解説を参考にしてみてください。