病が現役終盤の謎の大失速に繋がった?
この記事では「真部一男」の晩年と散り際について解説します。
「真部一男」とは?簡単に説明
棋譜が当たり前の様に一般紙に掲載されていた時代、そこで彼の名前を目にしたことがある方は多いでしょう。
また将棋界のプリンスとも呼ばれた視聴率男であり、NHK日曜午前の『将棋講座』や対局番組に出演した際にはそれが如実に数字に表れていたと言います。
永世棋聖「米長邦雄」氏とは相性が良かったもの、彼同様に関西の「森安秀光」氏が不得手。
一般棋戦優勝回数は生涯通じて一度だけでした。
多趣味で知られており、文筆業に加え、囲碁やバックギャモンでも強さを発揮していたと言います。
「真部一男」の晩年
ヘビースモーカーかつ酒豪なのは有名な話で、四十路を目前にした頃から体調不良に襲われるようになっていました。
体調不良にともない成績も急下降していきましたが、2007年10月30日の「豊島将之」との対局では将棋界でも語り草となる「△4二角」という入魂の一手を放っています。
しかしこの時点で既に服を着ることも大変なほどに病は悪化しており、33手で投了。
誰の目からも体調不良は明らかで現存する写真からも一目瞭然だと言えるでしょう。
「真部一男」の死に様
「豊島将之」との対局からほぼ一ヶ月後の07年11月24日に転移性肝腫瘍でその生涯を終えています。
55歳没。
「真部一男」の死に様の信憑性
ヘビースモーカーかつ酒豪であるのは有名な話で、タバコの銘柄もハイライト党だったと言います。
亡くなった07年の春にはCOPDで入院していました。
06年に自身が前年の対局を回顧した手記では常に呼吸が浅く、深く息を吸い込めずに欠伸すらできない状態だったことを明かしています。
また酒好きで昼夜逆転の生活を送るとともに食事の代わりに酒を飲んでいたと若い時分のインタビューでも語ってもいました。
晩年は首が回らないのに加え、COPDで慢性的に体調が悪く多少痛みがあっても気にすることはなてかったのかもしれません。
07年春に入院したおりには検査は行われず、発覚したのは9月になってからでした。
またそれを周囲に話したのはごく一部で、それも10月下旬。
没後に公開された写真では、既にこの頃には痩せるというよりもやつれた印象が先行し、体調不良は傍目からでも感じられます。
まとめ
「真部一男」は2007年11月24日に永眠しています。
55歳没。
死因は転移性肝腫瘍によるものでした。
COPDであることを自身の手記で明かしており、亡くなる2年前の夏の対局では、既に欠伸もできないほど。
07年春にCOPDの治療で入院していたこともあり、亡くなった時には肺の病気が原因だと思った方も多いでしょう。
実際には転移性の肝臓がんに罹患しており、それが発覚したのが同年の9月で既に末期状態だったはずです。