島津久光は幕末の薩摩藩の実力者で、公武合体運動を推進した人物です。
島津久光の晩年と最期について紹介します。
島津久光とは?
島津久光は、薩摩藩主であった島津斉興の五男として誕生しました。
異母兄には、薩摩藩の11代当主となった島津斉彬がいます。
斉興の後継をめぐるお由良騒動が起きると、幕府が介入する形で斉彬が藩主となりました。
しかし、斉彬が亡くなると遺言により、久光の実子である忠義が藩主となります。
それに伴い久光も本家に復帰し、薩摩藩で実権を握りました。
文久2年には兵を率いて上京するなど、公武合体運動を推進したのです。
公武合体運動の中心人物となり、尊王攘夷派を弾圧して幕政改革を行いました。
島津久光の晩年
島津久光は明治維新後も、薩摩藩で実権を握り続けます。
新しく成立した明治政府が進める改革には、批判的な立場でした。
西郷隆盛と大久保利通が主導して行った廃藩置県には、激怒したと伝えられています。
薩摩藩領は、都城県と鹿児島県に分断されました。
それは行政権を奪われることでもあったので、久光が激怒したのも仕方がないことかもしれません。
1973年には内閣顧問に就任し、その後左大臣となりました。
しかし、保守的な意見を主張したため、政府には受け入れられませんでした。
結局、就任後しばらくして辞任しています。
左大臣を辞任した後は鹿児島に戻り、隠居生活を送りました。
島津久光の最期
島津久光は、1887年に鹿児島にある玉里邸で亡くなりました。
享年70です。
玉里邸は江戸末期を代表する大名庭園として今も残っています。
この頃には髷を切り、洋髪にする人が多かったのですが、久光は死ぬまで髷を切らなかったといいます。
政府による廃刀令にも断固反対の立場を貫いていました。
和装を身に付け、帯刀していたといいます。
久光が亡くなった際には、鹿児島で国葬が行われました。
葬儀を行うために道路が整備されたり、儀仗兵が派遣されるなど非常に大掛かりな葬儀でした。
島津久光をめぐる逸話
島津久光は薩摩藩で実権を握っていましたが、藩主にはなりませんでした。
父である斉興の後継を異母兄である斉彬と争います。
これはお由羅騒動と呼ばれており、久光の実母で斉興の正室だったお由羅の方が、正嫡であった斉彬を廃嫡に追い込もうとしたものです。
薩摩藩では斉彬の家督相続を目指す一派と久光を後継に押す一派が争いました。
しかし、この騒動が幕府に伝わり、幕府が介入することとなります。
将軍である徳川家慶が斉興に隠居を促したので、斉興も受け入れざるを得ませんでした。
家督は斉彬に譲られます。
ただし、久光と斉彬はお互いに周囲に担がれた形なので、本人同士の仲はそれほど悪くはなかったといわれています。
まとめ
島津久光は薩摩藩の実力者で、公武合体運動を推進しました。
明治維新後は内閣顧問や左大臣に就任しますが、保守的な意見が受け入れられず辞任しています。
そして、鹿児島に戻り70歳で亡くなりました。