「那須与一(なすのよいち)」とは?
那須与一の晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。
「那須与一」とは?簡単に説明
源平合戦で源義経軍に従軍していた那須与一を一躍有名にしたのが、「屋島の戦い」における扇の的のエピソードです。
「揺れる舟上の扇の的を射よ」という平家の挑発に対して源氏の代表として受けて立ったのが弓の名手・那須与一でした。
与一が約75メートル離れた扇の的に向かって矢を放つと、みごと矢は扇の的に命中したことで、源平の将兵双方から大いに称賛されたという逸話が軍記物の「平家物語」や「源平盛衰記」に描かれています。
「那須与一」の晩年
源平合戦終結後、与一は合戦での活躍や扇の的を射た褒美として源頼朝から那須氏の惣領の地位を与えられて那須家本家の家督を継ぎ、領地として丹波、信濃、若狭、武蔵、備中の五か国内の荘園を与えられます。
さらに平家方に味方していた九人の兄たちを無罪放免として彼らを含む都合十人の兄にそれぞれ領地を分け与え、以後彼らは那須十氏として本家に仕えてそれぞれ繁栄します。
一方の与一はそののち出家し、京都の即成院に入って穏やかな生活を送り、最期は伏見で亡くなります。
「那須与一」の死に様
那須与一は京都の伏見で病死し、即成院に埋葬されたと伝えられています。
その墓所は今も即成院にあり、多くの参拝客が訪れているようです。
与一の死の確かな日にちは分かりませんが、1189年(文治5年)8月8日に京都で亡くなり、伏見の即成院に葬られたという説と、1198年(久元年)10月に源頼朝に従って上京する途中に伏見で急死し、即成院に葬られたという説があります。
誕生日も詳しいことは分からないため、亡くなった年齢も不明ですが、「群書類従」によると屋島の戦いの時に17歳だったとの記述があることからこれが正しければ二十代前半という若さで亡くなったということになります。
「那須与一」の死に様の信憑性
那須与一については鎌倉幕府の公式記録である「吾妻鏡」にも貴族たちの日記にも記載がなく、「平家物語」や「源平盛衰記」といった軍記物のみにしか記述がないため、扇の的のエピソードはおろか、与一が本当に実在していたのかといったことすら疑われています。
与一の最期については、「那須系図」及び「那須拾遺記」の記述が1189年死亡説の根拠となっており、「続群書類従」の「那須系図」の記述が1190年死亡説の根拠となっていますが、どちらが正しいか判断する確証はありません。
まとめ
扇の的のエピソードはおろか、那須与一が実在したかどうかすら疑問とのことに驚きが隠せませんが、与一が本当に実在し、軍記物に描かれたエピソードが多少誇張はあったとしても事実だと信じたいものです。