「豊臣秀吉」の下、武勇と知勇で活躍を果たした戦国武将「蜂須賀正勝」はどのような最期を迎えたのでしょうか?
この記事では、「蜂須賀正勝」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「蜂須賀正勝(はちすか まさかつ)」とは?簡単に説明
「蜂須賀正勝」とは、「豊臣秀吉」に仕えた戦国武将、並びに戦国大名です。
「蜂須賀小六(はちすか ころく)」の名でもよく知られています。
「斎藤氏」や「織田氏」に仕えた後、「川並衆(かわなみしゅう)」と呼ばれる独立勢力を率いるようになったとされています(創作の可能性あり)。
やがて織田家臣「羽柴秀吉」の与力として加わり、「金ヶ崎の戦い」や「姉川の戦い」など、織田氏の主要な戦に参加して、戦功を挙げています。
天正5年(1577年)より「中国攻め」にも従軍し、功績の恩賞として播磨(現在の兵庫県)龍野城を与えられ、晴れて大名となりました。
「蜂須賀正勝」の晩年と最期
中国攻めにて、毛利軍を相手に備中高松城の攻略中の天正10年(1582年)に「本能寺の変」が起こります。
「羽柴秀吉」の命を受けた「蜂須賀正勝」は「黒田孝高(くろだ よしたか)」と共に毛利軍との和睦を早々に成立させ、「中国大返し」に大きく貢献しました。
その後、「明智光秀」との「山崎の戦い」や「柴田勝家」との「賤ケ岳の戦い」、織田・徳川軍との「小牧・長久手の戦い」など主要な戦いに参陣しています。
豊臣政権下でも引き続き、天正13年(1585年)の「紀州征伐」や「四国征伐」に加わりました。
また、「蜂須賀正勝」は「黒田孝高」と共に毛利氏との取次役に任じられおり、和睦条件にあった領土分配を数年かけて完遂します(中国国分:ちゅうごくくにわけ)。
この頃より「蜂須賀正勝」は病により京都で静養するようになりました。
病状が回復し、一旦大阪へ戻りますが、天正14年(1586年)5月22日、大阪の御殿山屋敷にて死去します。
享年61歳でした。
「蜂須賀正勝」の死に様の信憑性
死因については不明で、定かではありません。
「蜂須賀正勝」と「豊臣秀吉」の出会い
浪人時代の「秀吉」と「矢作橋」にて出会ったというエピソードが有名ですが、後世の創作である可能性が高いとされています。
一方、「秀吉」の父が「蜂須賀正勝」の父の家臣であったことから、2人は幼い頃より面識があったとする説も挙げられています。
まとめ
「蜂須賀正勝」とは、「豊臣秀吉」に仕えた戦国武将、並びに戦国大名です。
「川並衆」と呼ばれる独立勢力の親分となった後(創作の可能性あり)、「羽柴秀吉」の下で数々の戦功を挙げます。
豊臣政権下でも主要な戦場へ参加し続けますが、一方で「中国国分」という大任を完遂するなど、武功のみならず、政治的な役割でも大きく貢献を果たしています。
病により静養するようになった後、天正14年(1586年)5月22日に大阪の御殿山屋敷にて死去します。
享年61歳でした。
詳しい死因については定かとなっていません。