カメラマン志望の青年だった?
「三船敏郎」の散り際とは?
この記事では三船敏郎の晩年と散り際について解説していきます。
「三船敏郎」とは?簡単に説明
戦後以降の日本映画界の大スター、世界の「黒澤明」監督作品に多く主演したことで、世界でもその認知度は高く評価されています。
元々映画俳優志望ではなく、撮影スタッフ・カメラマン志望で東宝ニューフェイスに応募。
合格したものの面接では不遜な態度で末端の補欠合格だったのも伝説の1つだと言っていいでしょう。
世界のミフネなのは言うまでもなく、海外の著名人にもファンは多く、『スターウォーズ』などの大作からのオファーがあったほどです。
「三船美佳」氏は実子。
「喜多川美佳」氏とは入籍していないため没後認知されています。
「三船敏郎」の晩年
92年に心筋梗塞を発症し倒れたことで、長年の内縁関係にあった喜多川氏と関係を解消。
別居ながらも離婚をしていなかった「吉峰幸子」と復縁しています。
彼女から甲斐甲斐しく看病を受けていたとされるも95年には死別することとなりました。
また体調不良は続いており、アルツハイマー病を発症。
映画の主演はなく脇役を演じており、遺作となった『深い河』でも「沼田曜一」の演じる木口役の旧友塚田役を演じ、劇中でも亡くなっています。
「三船敏郎」の死に様
1997年12月24日21時28分に東京都三鷹市の杏林大学医学部付属病院で永眠しています。
77歳没。
死因は多臓器不全によるものでした。
「三船敏郎」の死に様の信憑性
亡くなった日はクリスマスイブでしたが、その死は世界のトップ記事で報じられることとなりました。
1週間前に体調を崩し意識不明。
そのまま回復することがなく当日を迎えたと言われます。
夫人が既に亡くなっていることから、インタビューに応え、看取ったのも子息の「三船史郎」らだと言うことが明らかになりました。
インタビューでは晩年は孫と遊ぶ好々爺であり、それ以外の時間は自身の主演したビデオを黙って見ていたとされます。
認知症が進んだのは幸子氏が膵臓癌で亡くなった95年以降のこと。
高齢者専門の病院に入院、それ以降も症状の悪化は進んで夏には身体が流動食しか受け付けないようになっていたとされます。
死の1ヶ月前になるとあらゆる内臓の機能の衰えから、流動食も受け付けず点滴での栄養補給になりました。
またコミュニケーションも取れなくなったと言います。
しかし黒澤明監督作品で何度も共演した故「志村喬」の夫人である「政子」氏の呼びかけに反応。
既に昏睡状態ではありましたが、目から涙がこぼれ落ちたそうです。
その1週間後に穏やかな表情で静かに息を引き取りました。
まとめ
1997年12月24日21時28分に東京都三鷹市の杏林大学医学部付属病院で死去。
77歳没。
死因は加齢による多臓器不全だと言われます。
92年に心筋梗塞、そしてアルツハイマー病を発症。
95年の夫人の逝去以降症状は進行し、専門病院へ入院。
97年夏には流動食しか受け付けないようになると、11月下旬には内臓のあらゆる臓器に機能低下が生じ、点滴でしか栄養補給ができないようになってしまいました。
同時にコミュニケーションも取れなくなり、死の1週間前には意識不明に陥るとそのまま24日に永眠しています。