ムード歌謡の女王「松尾和子」の死に際とは?
この記事では松尾和子の晩年と死に際について解説していきます。
「松尾和子」とは?簡単に説明
昭和34年に当時のスター『力道山』氏が赤坂のリキパレスで『クラブ・リキ』を開業。
その専属歌手として引き抜かれた事が人生の転機になったと言っていいでしょう。
その後はトントン拍子でステップアップ。
「フランク永井」氏のお眼鏡に適うとスカウトされ、プロとしてデビュー。
セカンドシングルで日本レコード大賞を獲得するシンデレラストーリーを実現させています。
ムード歌謡の女王としてコンスタントに多くのヒット曲を輩出しました。
「松尾和子」の晩年
晩年はスキャンダルまみれになり、精神的に追い込まれていきます。
原因となったのは息子の素行不良。
91年に息子の政和氏が覚醒剤取締法違反で逮捕されています。
しかもただの逮捕でなく逃亡による全国指名手配犯としてのもの。
その放蕩息子へのコメントを求められた際に「それでも息子は私の宝」と答えた事で世間から大きな反感を買ってしまうことになりました。
松尾氏の息子への接し方が異常な溺愛と称され、週刊誌・女性週刊誌が我先にとばかり、こぞってバッシングを始めるのでした。
この一件で日本テレビの昼帯番組のレギュラーを降板。
これにより既に自身が経営していたブティックは破産、放蕩息子の浪費で背負う事になった借金を返す見込みは絶望的になってしまいました。
追い詰められ彼女は精神的に不安定になり、睡眠薬とアルコールに傾斜していく事になります。
そして悲劇は起こってしまうのでした。
「松尾和子」の死に様
1992年9月25日13時過ぎにめ東京都渋谷区神泉の自宅にて逝去。
57歳没。
階段から転落して頭部を打った際に右硬膜下血腫が発現。
死因はその血腫に脳が圧迫されたことによる脳圧迫によるものでした。
「松尾和子」の死に様の信憑性
午前3時に階段から転落。
階段下で横たわっているところを同居人の甥に発見されています。
2日前にも階段から転落しており、本人の大丈夫という言葉を信じて病院には行かなかったとのこと。
4時過ぎに部屋を覗くと寝息をたてており、なにもなく物事は終わったかの様に思えました。
しかし翌日13時に家政婦がベッドで仰向けのままで息絶えているのを発見。
通報するも既に心肺停止に加え、死後硬直が進んでいたとされます。
4億円もの借金を抱えて行き詰まっており、半年前には自殺未遂。
このため当初から自殺ではないかと死に疑念が抱かれる事になりました。
また刑務所の息子に充てた最後の手紙がお墓の話だった事も噂に拍車をかけています。
ただ息子に充てた手紙の締めくくりには「またね」の言葉があり、どちらにも解釈できるため自殺だとする信憑性は低いと思われます。
また同日は新曲の打ち合わせ、仕事もなかった訳ではないため事故説が有力だと言えるでしょう。
また頭部を強打した数時間後に頭痛を訴え、緊急搬送されるのはそう珍しくはありません。
まとめ
1992年9月25日、都内渋谷区の自宅寝室ベッドで心肺停止状態で発見されました。
その後行政解剖され、頭部強打による右硬膜下血腫が生じた事による脳圧迫で亡くなった事が判明しています。
72歳没。
多額の借金を返す目処がなく、息子の不祥事によるバッシングで2月は自殺未遂を起こしていました。
それゆえ自殺を疑う声も当時から少なからず囁かれています。
睡眠薬とアルコール依存により、常に足元がおぼつかなかったそうです。
実際亡くなる2日前にも階段から転落していました。