「直江景綱」は上杉家に三代に渡っ仕えた宿老であり、主に外交や内政に優れ、時には戦場にも向かっています。
「直江景綱」の知名度はそこまでありませんが、上杉謙信や直江兼続と言った、戦国時代を代表し人気がある武将と深い関わりがあります。
この記事では「直江景綱」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈していきます。
「直江景綱」とは?簡単に説明
「直江景綱」は、はっきりとした出生日は分かっていませんが1509年ごろに生まれたとされています。
上杉家の重臣であった飯塚氏に仕えていた、直江親綱の子として生まれます。
1507年に飯塚氏が長尾為景によって滅ぼされると、与坂城の城主となります。
当時内乱が続いていた越後国内をまとめあげた上杉家を主君とし、数々の外交や内政などの政務を任されるようになります。
「直江景綱」の「景綱」という名前は「上杉謙信」のかつての名前であった「景虎」の「景」の字を拝借し名付けられたと言われています。
60歳近く高齢となっても、その手腕を発揮していたとされる景綱ですが、その年齢で武田軍の援軍として戦場に参戦したりもしています。
さらに、内政でもかなりの力を持っていましたが、「直江景綱」は1577年に病死したとされています。
「直江景綱」の死に様
「直江景綱」は、高齢になっても手腕を存分に発揮し、上杉家の最重臣として活躍しています。
晩年に「直江景綱」は出家し「酒椿斎(しゅちんさい)」と言う名前を名乗っていた事がわかっており、1576年には出家したまま武将として石動山城の城主となるなど、亡くなる直前まで武将として活躍していたことが分かります。
その翌年である1577年3月5日に69歳で病死しました。
墓は新潟県にある徳昌寺に存在します。
「直江景綱」の死に様の信憑性
「直江景綱」は、1577年3月5日に病死したという事は分かっているものの、その病気はなんであったか、直接の死因はなんだったかという事は分かっていません。
69歳という没年齢は当時でとして長寿であったと言えるのではないでしょうか。
「直江景綱」の小ネタ等
「直江景綱」には子供がいませんでした。
そのため、養子として直江信綱を迎え後継者とするのですが、1581年に信綱は殺害されてしまいます。
跡継ぎが居なくなってしまった直江家は、急遽上杉景勝の命令により景勝の側近であった樋口兼続を、殺害された信綱の妻と結婚させ直江家の跡継ぎとしました。
この樋口兼続が後の「直江兼続」であり、「直江景綱」と「直江兼続」は義理の親子であったという事になります。
まとめ
上杉家を長年支えてきた「直江景綱」ですが、晩年まで多くの仕事を任されるなど上杉家重臣として最大限の信頼を置かれていた人物だという事かが分かりました。
その死に際は69歳での病死という事ですが、この時代に69歳まで生きるという事は長寿であったと言えるのではないでしょうか。