「蜂須賀家政」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「蜂須賀家政」の死に際とは?日本の人物

戦国武将・大名の「蜂須賀家政」とは、どのような歴史上の人物なのでしょうか?

おおまかな人生のあらましを簡単に解説して、その晩年・死に様について詳しく紹介していきます。

「蜂須賀家政」とは?簡単に説明

「蜂須賀家政(1558年~1639年)」とは、蜂須賀正勝の子で豊臣秀吉に仕えていた武将です。

天正14年(1586年)、秀吉の紀州征伐の功績を評されて阿波18万石を与えられました。

秀吉の「朝鮮出兵」にも従軍して活躍しましたが、秀吉死後は石田三成と対立する武断派となり、「関ヶ原の戦い」では嫡男・至鎮を東軍につかせ、自分は出家して本領を維持しました。

関ヶ原後は徳川家康に忠誠を誓って江戸時代まで生き残り、子の至鎮が先に死去すると、孫の忠英を後見して徳島藩祖として藩政の基盤固めを行いました。

「蜂須賀家政」の晩年

「蜂須賀家政」は慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」で、東軍に嫡男の蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)をつかせたことで、何とか阿波国徳島の本領を安堵されました。

父の蜂須賀正勝は秀吉恩顧の重臣でしたが、家政の晩年は一貫して徳川家康に味方するものとなり、「大坂冬の陣・夏の陣(1614年~1615年)」でも家康方についた至鎮が戦功を上げて、淡路一国(25万7000石加増)を与えられました。

元和6年(1620年)、息子の至鎮が若くして亡くなると、幕府から嫡孫の蜂須賀忠英(ただてる)の後見役を命じられます。

家政は忠英が大きくなる寛永6年(1629年)まで徳島藩の政治を実質的に取り仕切っていました。

晩年は、3代将軍・徳川家光の「御伽衆(おとぎしゅう)」もつとめて、家光に戦国時代のさまざまなエピソード・思い出を話したりしていたとされます。

「蜂須賀家政」の死に様

「蜂須賀家政」「関ヶ原の戦い」の後も阿波国徳島の本領を保ちましたが、関ヶ原後は蓬庵と号して高野山金剛峰寺に出家して、家督も嫡男の蜂須賀至鎮に譲りました。

息子の至鎮が自分よりも先に亡くなったため、至鎮の子の蜂須賀忠英(はちすかただてる)の代まで徳島藩の後見役を長くつとめましたが、寛永15年(1638年)の12月30日に81歳の寿命が尽きるかたちで死去することになりました。

海千山千の戦国乱世を生き抜いた蜂須賀家政ですが、その死に様は天寿をまっとうしての穏やかな最期だったと言えるでしょう。

「蜂須賀家政」の死に様の信憑性

「蜂須賀家政」は豊臣秀吉に従って戦国乱世を勝ち抜き、「関ヶ原の戦い」でもギリギリの判断で東軍について処罰を免れ、江戸時代まで生き残りました。

蜂須賀家政は寛永15年(1638年)12月30日に、江戸時代の人としては相当に高齢な81歳で亡くなっています。

死因についての記録は残っていませんが、当時の平均寿命を大きく上回っていることから、(何らかの病気があった可能性を含めて)寿命をまっとうしての死去・衰弱死に近いと考えられます。

まとめ

「蜂須賀家政」の大まかな人生の流れと晩年・死に様について分かりやすく解説しましたがいかがでしたか?

「蜂須賀家政」は激動の戦国時代・織豊政権を生き抜き、徳島藩の基礎を確立しましたが、寛永15年(1638年)12月に天寿をまっとうする形で亡くなりました。

「蜂須賀家政」の死に様について詳しくリサーチしたいときは、この記事の解説を参考にしてみてください。

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