「黒田節」の逸話で有名な武辺者「母里太兵衛」はどのような最期を迎えたのでしょうか?
この記事では、「母里太兵衛」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「母里太兵衛(もり たへえ)」とは?簡単に説明
「母里太兵衛」とは、「豊臣秀吉」の軍氏として有名な「黒田孝高(くろだ よしたか)」、及び黒田氏に仕えた戦国武将です。
「黒田二十四騎」の1人であり、そのうちの譜代重臣「黒田八虎(くろだはっこ)」に数えられ、「母里友信(もり とものぶ)」の名でも知られています。
曽我家に生まれますが、後に母里姓を与えられました。
黒田家臣として、「栗山利安(くりやま としやす)」と並んで軍の主柱を担い、「中国四国攻め」や「九州征伐」、「文禄・慶長の役(朝鮮出兵)」、「関ケ原の戦い」など主要な戦で武功を挙げ続けます。
「母里太兵衛」の晩年と最期
「関ケ原の戦い」の後、黒田家から出奔した「後藤基次(ごとう もとつぐ)」の益富城に移され、城主となりました。
江戸城の普請の折、天守台石垣の担当となり、完成後に「徳川家康」から恩賞として刀を与えられますが、宛名を「毛利(もうり)」と間違われていたため、以降は「黒田長政(くろだ ながまさ)」の命により「毛利但馬守信友」を名乗るようになります。
慶長13年(1608年)から長崎街道の冷水峠の整備に携わりますが、慶長20年(1615年)の6月6日に病没します。
享年60歳でした。
「母里太兵衛」の死に様の信憑性
病死とされていますが、詳しい死因については不明で、定かではありません。
黒田節(くろだぶし)
「文禄・慶長の役」の休戦中、「母里太兵衛」は「黒田長政」の使いで、伏見城の「福島正則(ふくしま まさのり)」の元を訪れます。
酒豪だった「福島正則」は、同じく酒豪として有名だった「母里太兵衛」に酒を勧めますが、使いということもあってこれを固辞しました。
それでも「福島正則」は食い下がり、「飲み干せたら好きな褒美をやる」と言ったり、「黒田武士は腰抜けだ」と侮辱する発言をして挑発します。
これを受けた「母里太兵衛」は、大杯に並々と注がれた酒を軽々と飲み干してしまいました。
「母里太兵衛」は褒美として、「豊臣秀吉」から与えられた名槍「日本号」を所望し、「正則」は渋々これを与えたと云われています。
この逸話は、「呑取り日本号」の異名とともに、「黒田節」として広く知られるようになりました。
まとめ
「母里太兵衛」とは、「黒田孝高(くろだ よしたか)」、及び黒田氏に仕えた戦国武将です。
黒田家臣として軍の主軸を担い、主要な戦で目覚ましい活躍を果たしました。
その功績により「黒田二十四騎」の中でも、特に重用された「黒田八虎」の1人として数えられます。
「関ケ原の戦い」の後、益富城を与えられ、城主となりました。
そして、慶長20年(1615年)の6月6日に病気により、60年の生涯を終えます。
病死とされていますが、死因については定かとなっていません。