われ日本の柱とならん「福田赳夫」の散り際とは?
この記事では福田赳夫の晩年と散り際について解説していきます。
「福田赳夫」とは?簡単に説明
第67代内閣総理大臣を務めました。
赳夫氏の現役首相時代は知らずとも第91代内閣総理大臣の「福田康夫」氏がご子息なのはご存知の方は多いでしょう。
自民党の大物議員の呼称である三角大福中のなかでは3番目に首相を経験することになりました。
就任時から高齢なのに加え、有名な大福密約によって短期政権なのは最初から確定したうえでの船出。
福田ドクトリンや日中平和友好条約が主な功績となっています。
「福田赳夫」の晩年
1986年に「安倍晋太郎」氏に派閥会長を禅譲するも思わぬハプニングに見舞われることになりました。
ポスト中曽根最有力と言われていた安倍氏でしたが、中曽根氏が総裁後継を「竹下登」氏を指名。
その後リクルート事件が勃発した際には首相再登板の声がかかります。
首相退任から10数年が経過。
赳夫氏も傘寿を越え米寿も視野に入る頃でしたが、これは実現には至りませんでした。
この時にはそれなりの意欲があったとされるも その翌年の第39回衆議院議員総選挙を前に政界を引退。
以降は自身が1983年に創立したOBサミットで掲げた三理念に基づき精力的に活動を続けることになります。
とはいえ引退後には自身が派閥を禅譲した安倍氏に健康問題が勃発し、91年春に逝去。
これにともない派閥の長にと声がかかるも固辞しており、根強い権勢を保っていたのは間違いないところでしょう。
「福田赳夫」の死に様
1995年7月5日0時6分、東京都港区北青山の東京女子医科大学附属青山病院にて逝去。
90歳没。
死因は慢性肺気腫によるものでした。
「福田赳夫」の死に様の信憑性
康夫氏自身も高齢ではあるもの健在であり、自身が政界入りするきっかけとなった父親の内閣総理大臣就任時以降のことを回顧する機会が多く、逸話は数知れません。
また死亡時には東京では号外が配られる運びになりました。
大蔵大臣時代には喫煙と健康の問題を専売公社に諮問していますが、自身が非喫煙者という訳ではありません。
ただし赳夫氏の死に関しては公表されている部分が少ないため、喫煙と慢性肺気腫の因果関係については断言できないのが本当のところでしょう。
まとめ
1995年7月5日0時6分、東京都港区北青山にかつて存在した東京女子医科大学付属青山病院で永眠しています。
90歳没。
死因は慢性肺気腫によるものでした。
その死の様子はほとんど公表されておらず不明。
長寿の家系と言ってよくご子息の康夫氏が86歳で健在のほか、夫人の三枝氏も2013年まで存命し、101歳で亡くなっています。
三角大福中の面々のなかでは「中曽根康弘」氏に次ぐ長寿。
85歳まで現役議員として活躍、引退後は自らが起ち上げたOBサミットの議長として三理念の実現に奔走しました。