「明智光秀」の娘であり、妻の「細川ガラシャ」を愛しすぎた(?)戦国武将「細川忠興」はどのような最後を迎えたのでしょうか?
この記事では、「細川忠興」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「細川忠興(ほそかわ ただおき)」とは?簡単に説明
「細川忠興」は、戦国武将、並びに戦国大名であり、「明智光秀」の娘「細川ガラシャ」の夫としても有名です。
「織田信長」に臣従後、元服した年に「明智光秀」の三女「玉子」(後の細川ガラシャ)を娶ります。
後に「本能寺の変」が発生した折、「明智光秀」より味方に勧誘されますが、「細川忠興」と父「藤孝」はこれを拒否しました。
その後、「豊臣秀吉」に臣従し、「秀吉」の死後は、「徳川家康」方に与しました。
元和6年(1620年)に家督を三男「細川忠利(ほそかわ ただとし)」に譲り、自身は出家し、隠居しました。
「細川忠興」の晩年と最期
隠居後、寛永9年(1632年)に「忠利」が肥後国熊本54万石に加増移封されると、「細川忠興」は所領のうち9万5千石を隠居領とし、八代城(やつしろじょう)の北の丸を隠居所にしました。
そして、正保2年(1645年)の閏5月に四男「細川立孝(ほそかわ たつたか)」が没し、同年12月2日に後を追うようにして「細川忠興」も逝去します。
享年83歳でした。
「細川忠興」の死に様の信憑性
「細川忠興」は癪(内臓疾患)の持病があり、症状が悪化したため三男「忠利」に家督を譲っています。
しかし、死因については不明で、定かではありません。
「細川忠興」・「ガラシャ」夫妻にまつわるエピソード
天正15年(1587年)に「玉子」はキリスト教の洗礼と「ガラシャ」の洗礼名を受けます。
当時、「バテレン追放令」が出されていたこともあり、「細川忠興」は「ガラシャ」の洗礼に激怒し、棄教を強いますが、「ガラシャ」はこれを拒否しました。
夫の態度に「ガラシャ」は離婚を考え、宣教師に相談して説得されたとも云われています。
そして、慶長5年(1600年)に「関ケ原の戦い」が起こると、「石田三成」は夫「忠興」の留守中に「ガラシャ」を人質にしようと屋敷を包囲しました。
「ガラシャ」はこれを拒み、「夫の言いつけ通り、自分だけ死にたい」と伝え、キリスト教で自殺が禁じられているため、家臣に介錯させます。
「ガラシャ」の遺体が残らぬように、家臣たちは爆薬を仕掛けた屋敷に火を放って自刃しました。
「細川忠興」は「ガラシャ」の死を嘆き、キリスト教会に葬儀を依頼し、自身の所領ではキリスト教を保護したそうです。
まとめ
「細川忠興」は、戦国武将、並びに戦国大名であり、「明智光秀」の娘「細川ガラシャ」の夫でもあります。
「織田信長」、「豊臣秀吉」、「徳川家康」と時の権力者の下で功績を挙げていきました。
家督を三男に譲って隠居した後、正保2年(1645年)12月2日に、数か月先に逝去した四男の後を追うようにして「細川忠興」も逝去します。
享年83歳でした。
癪の持病がありましたが、死因については定かとなっていません。