「福島正則」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「福島正則」の死に際とは?日本の人物

「福島正則」が改易された理由とは?

陰謀論ではなかった?その後の晩年など分かりやすく解釈

「福島正則」とは?簡単に説明

秀吉子飼いの武将で加藤清正と並ぶ武功派なのが福島正則です。

賤ヶ岳の七本槍として有名なのは言うまでもありません。

また関ヶ原の合戦のターニングポイントとなった小山評定で、豊臣恩顧の大名ながらも率先して家康につくと発言したことで、東軍が反三成で固まりました。

そしてもう1つ有名なのが1615年に成立した武家諸法度の違反の実例としてでしょう。

日本史では確実に取り上げられるこの事件により改めて徳川、そして秀忠の治世を世に知らしめることとなったのです。



「福島正則」の晩年

大阪夏の陣、冬の陣で自らは出陣を許されず、江戸にてかつての主家が滅ぼされていくのを見届けた正則。

複雑な気持ちは胸中にあったのは間違いないでしょうし、家康もなくなり安堵して気が緩んだのかもしれません。

1619年武家諸法度違反を咎められ、まさかの改易処分を受けることになるのでした。

江戸参勤中の正則が謝罪し、修繕部の破棄が行われるはずでしたが、行き違いが生じたうえに見解の相違が発生。

毛利の抑えを担っていた福島家の安芸・備後50万石は没収となり、縁もゆかりもない信州川中島の信濃国高井郡2万石、越後国魚沼郡2万5000石の計4万5000石に転封ぜられることになりました。

正則は初代高井野藩藩主を務めるも、即家督を息子の忠勝に譲り出家しています。



「福島正則」の死に様

知行が約1/10の信州川中島、初代高井野藩藩主に転封された正則は嫡男に家督を譲って出家するものの翌年にはその嫡男・忠勝がなくなったため、魚沼郡2万5000石を返却。

安芸・備後時代と比較して1/25の知行高になってしまいましたが、新田開発を奨励、用水整備、治水にも取り組むのでした。

1624年の晩夏、正則は高井野でその生涯を閉じます、享年64歳でした。

「福島正則」の改易理由の信憑性

福島正則は改易になった理由については、幕府に豊臣恩顧の大名の取り潰しのが意図があったとされるのは通説ですが、その実は正則側に大きな不手際があったのは間違いありません。

広島城の普請は小倉藩主の細川忠興、忠利が始終密かに監視していたと言われ、幕府に無断で大規模普請を行い、事後報告だったのが真実と言っていいでしょう。

本丸は残して良いと幕府から許可が出ていたにも関わらず、本丸の大部分を破却して二の丸、三の丸を破却せずに済ませようとしたのは広島城を裸城にしたくなかったとする意図も伺えてしまいます。

人質に関しては忠勝が江戸へ行くことをゴネて遅れたこと、それを正則が許してしまったのはやはり問題とならざるをえません。

福島正則を処断すれば離反する大名が10近く出ると本多正純が進言し、一度は宥免されたされたものの、秀忠政権の面子を潰した行いをしたのが失策でした。

まとめ

福島正則の改易に関しては幕府の意図というのが通説でしたが、それ以上に正則側にも不手際があり、処断を受けるのは当時の書状を見れば致し方ないと言えるでしょう。

また改易の三年後に失脚した幕府の老中である本多正純。

彼が秀忠政権の中で力を失いつつあるなかで、処遇に関してのやり取りを一本化したのも失策でした。

意図の有無はともかく、結果秀忠を甘く見てしまった行為が正則の晩年のたか転びの最大の要因です。

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