「今川氏真」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「今川氏真」の死に際とは?日本の人物

戦国の波に飲まれ、お家を滅ぼしながらも、動乱の時代を生き延びた「今川氏真」はどのような最期を迎えたのでしょうか?

この記事では、「今川氏真」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。

「今川氏真(いまがわ うじざね)」とは?簡単に解説

「今川氏真」とは今川氏第12代目当主の戦国武将、ならびに戦国大名です。

永禄3年(1560年)に「桶狭間の戦い」にて父「今川義元(いまがわ よしもと)」「織田信長」により討たれたことで、「今川氏」の家督と領国を相続することになりました。

「桶狭間の戦い」の影響で情勢が混迷を極める中、支配下に置いていた「松平元康(まつだいら もとやす)」(後の徳川家康)が、敵対勢力の織田氏と同盟を結び、今川領の攻略を始めます。

その後も、「今川氏真」の当主としての手腕に不満を持つ重臣たちが見切りをつけ、次々と今川氏から離反していきました。

やがて、武田氏との同盟も解消となり、今川領である駿河国(現在の静岡県中部)は「武田信玄」に、 遠江国(現在の静岡県西部)は「徳川家康」に侵攻されることになります。

「今川氏真」は駿府(駿河国の国府)を追われ、掛川城へと逃れますが、「徳川家康」に包囲された後に、助命と引き換えに降伏します。

その後、「今川氏真」は伊豆にて、「北条氏」の庇護下に置かれることになります。

支配していた領地を全て失ったことにより、戦国大名「今川氏」はここに滅亡しました。



「今川氏真」の晩年と最期

「今川氏真」は、「北条氏」の政策の転換とともに、今度は「徳川家康」の元へ身を寄せます。

後に、「今川氏真」は出家して「宗誾(そうぎん)」と名乗っていたそうです。

「豊臣秀吉」による天下統一後は、京都に移住し、和歌会や連歌会などを通じて各文化人と交流しました。

「徳川家康」により江戸幕府が開かれた後は江戸に移住し、慶長19年(1615年)12月28日にその地で生涯を終えます。

享年77歳でした。



「今川氏真」の死に様の信憑性

「今川氏真」の死因については不明で、定かではありません。

「今川氏真」にまつわるエピソード

最期に「今川氏真」にまつわるエピソードをいくつかご紹介します。

父の仇「織田信長」の前で蹴鞠を披露

「織田信長」から「蹴鞠を見せてほしい」と所望された「今川氏真」は、公家たちとともに蹴鞠を披露したと記録に記されています。

文化人として

「今川氏真」は和歌において、一定の評価がなされており、「武田信玄」「北条氏康」「伊達政宗」なども名を連ねる「後水尾天皇(ごみずのおてんのう)」が選んだ「集外三十六歌仙(しゅうがいさんじゅうろっかせん)」にも取り上げられています。

まとめ

「今川氏真」とは今川氏第12代目当主の戦国武将、ならびに戦国大名です。

父の死後、今川氏の家督と領地を相続しますが、家臣の離反や領地の侵略を防ぐことができず、「今川氏真」の代で戦国大名「今川氏」は滅亡してしまいます。

後に「徳川家康」の庇護下に入り、文化人的な生活を送った後、慶長19年(1615年)に江戸の地にてその生涯を終えます。

享年77歳でした。

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