「直江兼続」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「直江兼続」の死に際とは?日本の人物

「愛」の兜で有名な上杉家の忠臣「直江兼続」はどのような最期を迎えたのでしょうか?

この記事では、「直江兼続」の晩年や死因について分かりやすく解説していきます。

「直江兼続(なおえ かねつぐ)」とは?簡単に説明

「直江兼続」は戦国武将であり、「上杉謙信」の後継者である「上杉景勝(うえすぎ かげかつ)」に仕えました。

上杉家の宰相として活躍し、外交と内政を担うようになります。

後に上杉家は「豊臣秀吉」に功績を認められ、会津120万石へ移封されました。

「豊臣秀吉」の死後、「徳川家康」が専横を極めるようになり、それを良しとしない上杉家との間に軋轢が生じます。

やがて、「石田三成」と呼応して「徳川家康」に対して挙兵しますが、「関ケ原の戦い」で西軍は敗北、上杉家も会津120万石から米沢30万石へ減封されてしまいます。



「直江兼続」の晩年と最期

米沢へ移った「直江兼続」は土地の開墾に努めます。

川の氾濫対策として最上川上流に3キロメートルに渡って巨石を積み上げ、谷地川原堤防を築きました。

この堤防は「直江石堤(なおえせきてい)」と呼ばれています。

新田開発にも取り組み、30万石だった米沢の石高を内高(うちだか:領民に年貢を課す際の算定基準として用いられた石高)51万石にまで増やしました。

その他にも、町の整備、鉱山の開発、殖産興業の推進を行い、米沢藩の基盤を築きました。

また、上杉家と徳川家との関係改善にも貢献を果たしています。

徳川家重臣「本多正信(ほんた まさのぶ)」の次男を婿養子として迎えたり、慶長19年(1614年)に豊臣家と徳川家の間で起こった「大阪の陣」では徳川方として参陣し、戦功を挙げました。

そして、元和5年(1619年)12月19日に江戸鱗屋敷にて病没します。

享年60歳でした。



「直江兼続」の死に様の信憑性

病没したとされていますが、詳しい死因については定かではありません。

「直江兼続」の「愛」の兜

「直江兼続」と言えば「愛」の一字をこしらえた兜で有名です。

この「愛」に込められた意味については、「愛宕権現(あたごごんげん)」からとった説が有力とされています。

「愛宕権現」は勝軍地蔵の化身とされ、戦国武将から軍神として崇められていました。

また、「上杉謙信」も戦勝祈願のために「愛宕神社」を訪れていたと云われています。

まとめ

「直江兼続」「上杉景勝」、並びに上杉家に仕えた戦国武将です。

外交と内政で手腕を振るい、上杉家は豊臣政権下で会津120万石に移封されます。

「豊臣秀吉」の死後、「徳川家康」の専横に抗い、「石田三成」らと挙兵しますが失敗に終わります。

上杉家が米沢30万石に減封された後は、土地の開墾に努め、藩政の基盤を築きました。

また、上杉家と徳川家の関係改善にも貢献しています。

そして、元和5年(1619年)12月19日に江戸鱗屋敷にて、病により60年の生涯を終えます。

病名など詳しい死因については定かとなっていません。

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