「豊臣秀次」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「豊臣秀次」の死に際とは?日本の人物

天下人豊臣秀吉の甥であった「豊臣秀次」ですが、豊臣家で第2代関白になりながらも、突如として高野山青巌寺に出家させられた上、秀吉により自害させられました。

親族に渡る関係者のほとんどが処刑や島流しの刑に処されるほどでしたが、何故切腹させられたのかその理由は判明していません。

陰謀説や、確執説、悪名説など数々の諸説があります。

そんな「豊臣秀次」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈します。

「豊臣秀次」とは?簡単に説明

「豊臣秀次」は、秀吉の姉の子で、秀吉からは甥にあたります。

宮部継潤や三好康長の養子を経て秀吉の養子となり、家督を相続し羽生秀次と名乗ります。

1592年12月28日、秀次は24歳の若さで豊臣家第2代関白に就任、秀吉の跡取りかに思われましたが、秀吉に待望の子が生まれ、秀吉は子の秀頼を溺愛するようになります。

これが原因かは定かではありませんが、1595年6月に突然秀次に謀反の疑いがかけられました。

秀次は当初はこれを否定しましたが、秀吉により伏見城への出頭を求められます。

出頭した秀次は城に入る事さえ許されず、そのまま高野山青巌寺に出家させられます。

その後、28歳の若さで自害を命じられ切腹しました。



「豊臣秀次」の死に様

「豊臣秀次」は、謀反の疑いがかけられ、一族もろとも処刑されました。

1595年7月8日に伏見城に出頭した秀次は、捕らえられ監禁に近い厳しい監視が行われ、1595年の7月13日より、秀次の家臣やその妻子が次々と自害、及び処刑されました。

そして7月15日、秀次に切腹の命が秀吉から下ります。

僧侶であった木食応其が切腹を食い止めようと奮闘しますが、秀吉に逆らえば寺を燃やされると言われた上、秀次本人が自害を了承したため、衝突などの不慮の事態は避けられています。

秀次と共に切腹の命を下された3人の小姓を秀治自ら介錯し、秀次は家臣の雀部重政の介錯され切腹しました。

その後、秀次の妻子など女子供39名全員が斬首されるという、非道とも言える処罰が下りました。



「豊臣秀次」は何故切腹を命じられたのか

何故「豊臣秀次」が秀吉から一族もろとも殺されてしまうほどの強い怒りを買ってしまったのかは諸説あります。

単純に秀吉に出来た子供を溺愛するがあまり、秀次が邪魔になったという説、そもそも秀吉と秀次は仲が悪かったという説、石田三成が罪を捏造したとする説、もともと試し切りを人で行うなどの数々の悪行を行ってきた秀次が裁かれたという説、秀次はそもそも秀吉に自害を命じられてはおらず身の潔白を証明するためにあえて自害したという説さえ存在します。

有力と言われている説もいくつか存在しますが、どれが本当かという所は今の所分かっていません。

まとめ

豊臣家の関白にまでなった「豊臣秀次」でしたが、秀吉の怒りを買い28歳の若さで切腹させられました。

その理由については現在でも諸説があり、どれも面白い内容となっています。

とはいえ、その若さ関白に就任したなどの事を考えると、有能な武将だったことが伺えるのではないでしょうか。

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