「人間失格」などで知られ、自身もその自己破滅的な生き様から映画化やドラマ化がされている小説家「太宰治」はどのような最期を迎えたのでしょうか?
この記事では、「太宰治」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「太宰治(だざい おさむ)」とは?簡単に説明
「太宰治」は「人間失格」や「斜陽」などの著作で知られ、作風から無頼派や新戯作派に数えられる小説家です。
「芥川龍之介」などの著作に読みふけり、17歳の頃には小説家の道に進むことを志していたようです。
その後、小説家となるために「井伏鱒二」に弟子入りする傍ら、左翼活動に傾倒していくようになります。
執筆活動に取り組むも、都新聞社の入社試験に落ち、大学も除籍された末に自殺未遂を起こしました。
さらに、腹膜炎の鎮痛剤として用いていた薬物にも依存するようになり、荒んだ生活に入り浸ります。
「太宰治」の晩年と最期
1938年(昭和13年)、「井伏鱒二」の計らいにより、「太宰治」は2人目の妻となる「石原美知子」と見合いをし、翌年の1月に結婚式を挙げました。
この時期に「女生徒」や「富岳百景」、「走れメロス」など明るく健全な作品を執筆しており、「太宰治」の精神が回復し、安定していたことの表れとされています。
太平洋戦争終結後の1947年(昭和22年)に発表した「斜陽」はベストセラーとなり、「太宰治」は一躍人気作家となるのでした。
その後、結核に体を蝕まれながらも、愛人「山崎富栄」の介抱を受け、「人間失格」を書き上げます。
そして、1948年(昭和23年)6月13日の深夜、「太宰治」は妻宛ての遺書と子供たちへの玩具、当時連載していた「グッド・バイ」の下書きを机に残して、「豊栄」と共に玉川上水へ入水します。
享年38歳でした。
「太宰治」の死に様の信憑性
死因は入水自殺とされています。
「太宰治」と「豊栄」の遺体は入水から6日後の6月19日に発見されました。
ちなみに、6月19日は「太宰治」39歳の誕生日でもありました。
「太宰治」の死にかんしては、現場に残っていた痕跡などから「富栄」による無理心中説や狂言自殺に失敗した説などの憶測を呼んだそうです。
一方で、「グッド・バイ」の13話が最後の作品となったことから、「太宰治」が強い関心を抱いていたキリスト教において、不吉な数字とされる「13」にかけた洒落だったとする説も挙げられています。
他にも、長男がダウン症と知的障害を持っていたことが自殺の要因とする説もあったようですが、1998年に遺族らによって公開された妻宛ての遺書には「小説を書くのが嫌になったから」と自殺の動機が記されていました。
まとめ
「太宰治」は無頼派や新戯作派に数えられる小説家です。
晩年に執筆した「斜陽」はベストセラーとなり、作家として一躍人気を博しました。
その後、同じく代表作の1つである「人間失格」も書き上げますが、1948年(昭和23年)6月13日に愛人と共に入水しました。