「大姫」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「大姫」の死に際とは?日本の人物

「大姫(おおひめ)」とは?

大姫の晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。

「大姫」とは?簡単に説明

大姫は鎌倉幕府を開いた源頼朝の長女で、母は北条政子です。

大姫とは長女の姫という意味で、本当の名前は伝わっていません。

平家打倒のために共に立ち上がった木曽義仲(源義仲)と対立した頼朝は和睦のため、義仲の長男である義高と大姫を婚約させ、その名目で義高を人質として鎌倉に迎え入れます。

しかし、義仲と戦になり義仲が敗死すると頼朝によって義高も処刑されます。

この父親の処置に衝撃を受けた大姫は心を病んで、その後持ち上がる縁談も拒み続けます。

やがて頼朝は大姫の後鳥羽天皇への入内を目論むも、大姫の死によって頓挫することになります。



「大姫」の晩年

頼朝が将来の禍根を断つために義高の殺害をきめたことを知った大姫は義高を鎌倉から逃がすために手助けするも、義高は捕らえられ討ち取られます。

それを知った大姫は深く傷付き、義高を思い悲しみに暮れる日々を送ることになります。

義高のための供養や祈祷も行なわれますが効果はなく、大姫は床に伏す日々が増えていくのでした。

しかし、1191年(建久2年)11月には病が治ったと「吾妻鏡」に記載があります。

この時、大姫の病気は邪気によるものと考えられていました。

それから3年後の1194年7月29日に大姫の具合が突然悪くなります。

危険な状態に陥りますが、なんとか回復します。

10月15日に再び大姫の具合は悪くなり、夜は寝られず、食事もできない状態だったと伝えられています。

その後も病はいったん治っても再発するということを繰り返します。



「大姫」の死に様

病による大姫の病状は一進一退でしたが、ついに回復することなく1197年(建久8年)7月14日、大姫は死去します。

正確な年齢は不明ですが、広く伝わっている1178年生まれであれば享年20となります。

大姫の死因ですが諸説あるようです。

鎌倉幕府公式記録である「吾妻鏡」が重要な手がかりとなるはずでしたが、なぜかこの時期の「吾妻鏡」の記録が欠落しています。

ただし、義高の死後、長い間大姫はたびたび病気になっていることが「吾妻鏡」には記録されていますので、若くして病死したというのが有力な説です。

死因は不明ですが、当時の人は邪気によるものと信じていたようです。

その他の死因としては、暗殺説、自殺説があります。

暗殺説は大姫の入内を快く思わない公家・土御門通親たちによる毒殺ではというものです。

また、自殺説は入内話に対する絶望からきたものとするものです。

しかし、暗殺説も自殺説も可能性としては考えられますが、確たる証拠はなく、信憑性としてもかなり低いと言わざるを得ません。

「大姫」の死に様の信憑性

やはり確たる証拠がないものの、病死というのが最も信憑性が高いと言えるでしょう。

「吾妻鏡」以外にも公家の藤原定家が残した「明月記」にも長期にわたる病気で逝去したと書かれており、九条兼実の弟・慈円の残した「愚管抄」にも久しく患ったのちに死去したと書いています。

また、当時の医療技術から見ても若くして病死するのは珍しくないことからも、病死説でまず間違いないと思われます。

まとめ

鎌倉幕府創成期前後の悲劇は枚挙にいとまがありませんが、この大姫の悲劇も涙無しでは語れない悲劇の一つです。

政略結婚とはいえ、互いに幼いながらも大姫と義高はたいへん仲睦まじかったとのことですので、いっそう悲しみは深く感じます。

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