「長尾為景」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈
「長尾為景」とは?簡単に説明
長尾為景を一言で現すとすれば“元祖越後の竜”これに尽きるでしょう。
上杉謙信の実父という側面が強調されがちですが、越後長尾氏はこの為景の代になって、長く混乱の続く越後をある程度まとめ、形骸化していた越後守護の上杉定実を傀儡に実質国主として活躍します。
1508年には下克上を成し遂げ、新しい風を越後にもたらしました。
強硬、そして武断政策を推し進めていたものの完全には越後を掌握を仕切れず、嫡男・長尾晴景に家督を譲り隠居するのでした。
「長尾為景」の晩年
越中で父・長尾能景が討たれたため、二十歳で家督を継いだ為景は、武によって越後を制圧していきました。
しかし揚北衆のように鎌倉時代から土着している豪族、国人の抵抗に根強く苦しめられます 為景、晩年の大一番は「三分一原の戦い」でほぼ30年越しに渡る上条定憲との因縁の対決に終止符をうったことでしょう。
居城春日山城からほどない三分一ヶ原で決戦に臨み、辛くも奇跡的な勝利を得るのでした。
戦術的な勝利(敵大将の上条定憲は数週間後に死亡)戦略的に多大な被害を被ったのは間違いなく、この年に家督を嫡男晴景に譲り渡しています。
その後は晴景に家督を譲り、その数ヶ月後に死亡した説もあれば、家督を譲り渡したのは1540年で亡くなるまでの数年、晴景を傀儡にし院政体制で実権を握ったとも言われています。
「長尾為景」の死に様
昭和に書かれた漫画や小説で描かれることが多いのは1537年2月に亡くなり、死因は病死、享年51歳というものです。
また1537年早々に亡くなった説の場合、前年春の「三分一原の戦い」での傷が原因になった可能性も高いと言えるでしょう。
2007年に発見された「越後過去名簿」によれば1542年1月20日に供養された記載があり、これが現在ではもっとも信憑性の高い史料といえ、死因はやはり病死とされています。
「長尾為景」の死に様の信憑性
為景だけでなく、16世紀の越後国の多くの武将に言えることですが、2007年に「越後過去名簿」が高野山清浄心院で発見されたことで、江戸時代の文献やそれ以降の研究や通説に矛盾や再検証が必要になりました。
それは国宝である「上杉家御年譜」(謙信の生涯に関しては軍談、創作されたと思われる部分が多い)はもとより明治期に書かれた「越佐史料」の記述も含めてだと言っていいでしょう。
このため為景の晩年、死にざまに関してはある程度考察、研究の進んだ2010年代の論文や研究から考証されたものの方が信憑性は高くなっていると言えます。
まとめ
長尾為景の晩年は「越後過去名簿」の発見で通説の信憑性が下がり、不可解な点が多くなってきました。
江戸時代の史料よりも信憑性の高い第一次史料で、為景は通説より5年以上生存していたことが濃厚とされています。
また家督を譲り渡した年も複数の説が生じ、為景は院政どころか、クーデターによる失脚説も持ち上がるほどです。
それ以外にも為景の晩年における最大規模の合戦「三分一原の戦い」は30年に渡る宿敵であった上条定憲に致命傷を与えたと思われる劇的勝利ながらも主だった史料に記載がないのも謎な部分。
長尾為景の晩年は謎が多いため、さらなる新史料の発見が求められるところです。