「桐野利秋」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「桐野利秋」の死に際とは?日本の人物

桐野利秋は幕末の薩摩藩士で、西郷隆盛と最後まで運命を共にしました。

その晩年と最後についてい紹介します。

桐野利秋とは?

桐野利秋は、幕末の薩摩国に生を受けます。

1862年に島津久光に従って上京しました。

朝彦親王付きの守衛となり、諸国の志士たちと交流を持つようになります。

その影響を受け、倒幕を唱えるようになりました。

薩摩藩の家老であった小松清廉からは目をかけられており、西郷隆盛などの薩摩藩の重臣からも重用されています。

西郷隆盛の元で長州藩の内情を探るなど様々な国事に奔走しました。

戊辰戦争においては会津若松を攻略する際の軍監を務め、軍功を上げています。



桐野利秋の晩年

明治の時代に入ると、鹿児島常備隊の第一隊隊長となります。

鹿児島と中央を繋ぐ役を担ったといわれています。

それから明治4年には、廃藩置県を行うために上京した西郷隆盛と一緒に上京しました。

その後、陸軍少将に任じられ、明治5年には鎮西鎮台の司令官となって熊本に赴きます。

明治6年には陸軍の裁判所所長を兼任しますが、西郷隆盛が征韓論に敗れて下野すると辞表を提出します。

西郷と行動を共にし、桐野も鹿児島に帰郷しました。



桐野利秋の最期

桐野利秋は鹿児島に戻ると、原野を開墾するなどして日々を過ごします。

辞職した軍人たちによる私学校が西郷隆盛によって作られた際には、吉野開墾社を指導する立場となり積極的に開墾事業に取り組みました。

私学校は、不平を持つ士族を抑える目的でも作られたものです。

しかし、西郷隆盛の暗殺計画が進んでいたことを私学校側が知り、大評議が行われました。

議論を進めたのは桐野利秋です。

その評議により、大軍を率いて北上することが決定されました。

明治政府との全面戦争でした。

これが西南戦争へとつながっていくのです。

桐野利秋は四番大隊指揮長となって総司令を行いました。

西南戦争の盟主となった西郷隆盛ですが、私学校の兵力では政府に対抗するのが難しいことは分かっていました。

しかし、暴動は抑えられないことを悟り、挙兵を決意したのです。

西郷隆盛はまず熊本城を目指しました。

明治政府は有栖川宮熾仁親王を総司令官とし、政府軍と西郷郡が激突しました。

戦いが長引くにつれて西郷軍は徐々に追い詰められ、西郷隆盛は鹿児島の城山において自決します。

その姿を見届けた桐野利秋は、その後も勇敢に戦いますが銃弾に額を撃ち抜かれて亡くなりました。

享年40です。

桐野利秋をめるぐ逸話

桐野利秋は、新しい物好きの洒落ものだったといわれています。

軍服はオーダーメイドでフランス製でした。

フランスの香水を好んでいたといわれ、亡骸からもその香りがしたといいます。

まとめ

桐野利秋の人生は、西郷隆盛と共にあったといっても過言ではありません。

陸軍少将の地位にありましたが、西郷が下野した時には辞表を提出して自分も帰郷しています。

そして西南戦争で勇敢に戦いましたが、40歳で戦死しました。

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