「鶴田浩二(つるたこうじ)」とは?
鶴田浩二の晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。
「鶴田浩二」とは?簡単に説明
鶴田浩二は高倉健や菅原文太と並ぶ、昭和を代表する映画俳優の一人です。
若い頃は絶世の美男子としてアイドル的な人気を博し、中年期に入ると任侠映画や戦争物での渋い演技で新たな魅力を開花させました。
また、歌手としても独特の渋い声と歌唱スタイルで「傷だらけの人生」などのヒット曲も生んでおり、日本映画界を代表するスタートしてトップの座に長らく君臨しています。
「鶴田浩二」の晩年
若い頃から人気を博し、甘い美貌と頽廃的な雰囲気の演技でスター街道を上り続けた鶴田浩二ですが、1953年の「野戦看護婦」ではたった1日の拘束で出演料が300万円という日本映画史上最高のギャラを得る大スターにまで上り詰めます。
東映に移籍してからは一時期、人生初のスランプが襲いますが、1963年に任侠映画「人生劇場 飛車角」に主演し、これが大ヒットします。
以降、この作品の大ヒットは東映をヤクザ映画会社に変えるほどでした。
また、1971年には「傷だらけの人生」が人生最大のヒット曲となります。
1972年以降はテレビにも積極的に出演し、NHKドラマ「男たちの旅路」シリーズは大ヒットします。
まさに順風満帆な人生のように思われましたが、1985年秋にテレビオドラマの撮影中、体調不良を訴え慶應義塾大学病院に入院し、肺がんと診断されますが、本人には本当の病名は伏せられます。
翌年になって病を押してNHKドラマ「シャツの店」に主演しますが、これが遺作となります。
「鶴田浩二」の死に様
鶴田浩二にガンが見つかったのは1985年のことでした。
その後、退院した鶴田は自宅で闘病生活に入ります。
しかし、1987年5月10日に胸の痛みを訴え、再入院します。
同月13日には肺炎を併発してしまい、重体に陥ります。
そして同月16日午前10時53分に肺がんのため東京都新宿区の慶應義塾大学病院で息を引き取ります。
享年62。
「鶴田浩二」の死に様の信憑性
鶴田浩二は病院で死去していることから死に様の信憑性は高いでしょう。
ちなみに鶴田の葬儀には多くの戦友や元特攻隊員の仲間が駆けつけています。
その際、鶴田は軍服を着せられ、軍歌と送葬ラッパで見送られたとのことです。
「鶴田浩二」の小ネタ等
映画のストーリーのような「戦後最大のロマンス」と呼ばれるほどのロマンスを、女優・岸惠子と実生活の中で演じています。
しかし、岸の事務所が交際を許可せず、半ば強引に別れさせられると、鶴田はショックのあまり自殺未遂を起こしています。
また、鶴田のマネージャーが山口組とトラブルになった際に、組員たちに報復のため襲撃されるという事件も起こっています。
ただしその後、山口組とは和解し、逆に親交を深めることになります。
まとめ
鶴田浩二と年代が違うため、鶴田の全盛期の人気のほどは体感できておらず、その凄さは実際には解りませんが、映画やドラマの主演以外で鶴田浩二が出演している場合は大抵、クレジットの順番がどんな大物俳優や大スターよりも最後に移置しているのを見て、鶴田の大物感を再認識しています。