「古田織部」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「古田織部」の死に際とは?日本の人物

古田織部は戦国武将の一人ですが、茶人としても知られています。

古田織部の晩年と最期について紹介します。

古田織部とは?

古田織部は、美濃国で古田重定の嫡男として誕生します。

国人領主であった伯父の古田重安の養子となります。

茶人としては父から教えを受け、武将としての経験も積み重ねます。

織部はまず織田信長に仕え、信長の死後は豊臣秀吉に仕えました。

九州平定や小田原征伐といった合戦にも参加しています。

秀吉の死後に起きた関ヶ原の戦いでは徳川家康方に組し、1万石を与えられます。

茶人としては千利休の弟子となり、利休と共に茶の湯を大成しました。



古田織部の晩年

古田織部は師である千利休が亡くなった後、織部流という武家茶道の一派を築きました。

茶の湯を通して戦国大名を始め、朝廷や公家、寺社などともつながりがあったといいます。

家督は息子である重広に譲っていますが、第2代将軍となった徳川秀忠の茶の湯の指南役も務めています。

織部の茶の湯の弟子には、徳川秀忠だけではなく伊達政宗や毛利秀元、小早川秀秋、島津義弘など名だたる戦国武将もいます。



古田織部の最期

豊臣氏が滅亡した大阪夏の陣において、古田織部は豊臣方に内通したと嫌疑をかけられます。

きっかけは茶人である木村宗喜や薩摩の島津氏に関係する連歌師が、豊臣氏に内通した罪で捕らえられたことによります。

織部は豊臣秀吉に仕えていたことがあり、秀吉の筆頭茶堂でもありましたから豊臣氏との内通が疑われたのです。

その疑いに対して、織部は全く言い訳をしなかったといいます。

そのため大阪城が落城すると、織部は切腹させられてしまいました。

享年73です。

嫡男である重広も斬首されたので、古田家は断絶したことになります。

古田織部をめぐる逸話

古田織部は千利休の茶の湯を継承し、茶の湯では第一人者となります。

茶道具の製作や建築、作庭などにも携わりました。

織部は独特の美意識を持っており、多くの職人や陶工たちに製作させたといいます。

それらは織部好みと呼ばれ、当時の流行となりました。

徳川秀忠も織部が切腹した後も織部の茶の湯を愛しており、織部の死後も織部流を続けたといわれています。

戦国大名にも織部の弟子が多かったことから、加賀藩や仙台藩、尾張藩、薩摩藩など各藩でも用いられました。

織部焼

古田織部の指導によって製作された陶器は、織部焼と呼ばれています。

織部は斬新で奇抜な文様を好んだと言います。

特に有名なのは緑釉がかけられた陶器です。

当時、行われていた南蛮貿易の影響もあり、中国の南方からもたらされた陶器が元になっていました。

美濃や唐津にある窯でつくられていたと考えられます。

まとめ

古田織部は戦国武将ではありますが、茶人としての方が有名です。

千利休の弟子となり、利休と一緒に茶の湯を大成しました。

しかし、大阪夏の陣の時に敵に内通したと嫌疑をかけられ、切腹させられてしまいます。

享年73でした。

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