「双葉山定次」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「双葉山定次」の死に際とは?日本の人物

前代未聞の大事件を起こした「双葉山定次」の死に際とは?

この記事では双葉山定次の晩年と死に際について解説していきます。

「双葉山定次」とは?簡単に説明

双葉山の晩年は実力を越えていた「羽黒山政司」との直接対決がなかった事や 1965年から取り組みにおける部屋別総当たり制が導入。

そのため一概に比較はできませんが、それでも69連勝は現在に至るまで破られていない記録を残したのが「双葉山定次」です。

昭和恐慌、日中戦争長期化などによる民衆の閉塞感を晴らす存在として絶大な人気を誇る国民的スターでした。

引退後は時津風一門を形成し、日本相撲協会理事長にも就任するなど角界の発展に貢献しています。



「双葉山定次」の晩年

引退後に璽光尊事件を起こしているもの戦後の混乱期で情状酌量の措置が取られ角界に復帰できたのは幸いだったと言えるでしょう。

事件の10ヶ月後にはとなる相撲協会理事への就任が決まり、あとはトントン拍子で出世していく事になっています。

元々56年1月からは理事長代行を務めていましたが、翌57年5月には理事長に正式就任すると長期政権を築く事になりました。

積極的に角界の改革を断行。

現在に至るまでの繁栄の礎を築き上げました。

具体的には前述した部屋別総当り制の実施で取り組みの不公平感、マンネリ化を排除しています。

また相撲協会としての規律、65歳定年制や力士のサラリーマン化、引退後の生活水準の確保など力士の地位向上に尽力したのは間違いありません。



「双葉山定次」の死に様

1968年12月16日、東京大学医学部附属病院にて死去。

56歳没。

死因は劇症肝炎によるものでした。

「双葉山定次」の死に様の信憑性

戦前にアメーバ赤痢に苦しんだ事は知られていますが、それも祟ったのかもしれません。

晩年は肝炎を発症して何度となく入退院を繰り返していた事実が明らかにされています。

肝炎を発症した理由に関してはわかっていません。

しかし入退院を繰り返して自身の余命を察していたと思われます。

最期の仕事として戦後の大横綱である「大鵬幸喜」の11月場所優勝の賜杯を授与。

その後12月に東京大学病院に入院する際には武士の死に装束を思わせる全身白いスーツ姿で来院し話題を呼びました。

まとめ

1968年12月16日、入院先の東京大学医学部附属病院で永眠しています。

56歳没。

死因は劇症肝炎によるものでした。

晩年は肝炎で入退院を繰り返していたとされ、最後の入院時には死を予感していたのか全身白いスーツで病院を訪れています。

晩年は相撲協会理事長として尽力。

相撲協会の確立や力士の地位向上、大相撲ファンが楽しめる取組制度改正など現在に至る繁栄の礎を築いた事は高く評価される事になりました。

その功績で引退直後の不祥事の汚名返上はできたと言っていいはずです。

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