「前田利長」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「前田利長」の死に際とは?日本の人物

病死か?自殺か?毒殺か?死に際に諸説挙げられている「前田利長」ですが、どのような最期を迎えたのでしょうか?

この記事では、「前田利長」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。

「前田利長(まえだ としなが)」とは?簡単に説明

「前田利長」は、豊臣家重臣「前田利家(まえだ としいえ)」の嫡男であり、後に加賀藩初代藩主となりました。

はじめは「織田信長」に仕えましたが、「本能寺の変」後は「柴田勝家」方として「賤ケ岳の戦い」に参戦します。

「賤ケ岳の戦い」後は、父「利家」と共に「豊臣秀吉」に臣従し、「九州征伐」「小田原征伐」など主要な戦で武功を挙げました。

父の死後に五大老を継ぎますが、後に父の「3年は上方を離れるな」という遺言に反して、「徳川家康」の勧めで金沢へ帰国しています。



「前田利長」の晩年と最期

「関ケ原の戦い」の後に、能登や小松領、大聖寺領の加領で石高は約120万石となり、加賀藩は日本で最大の藩となります。

これにより「前田利長」も日本最大の藩領を持つ大名となりました。

その後、「関ケ原の戦い」により所領を失ってしまった武将たちを家臣として臣従させますが、これが「徳川家康」に与してから問題となっていた家臣団内の対立に火を付けます。

尾張からの家臣が中心の派閥と能登・加賀以降加わった家臣が中心の派閥との対立に、「前田利長」は喧嘩両成敗や徒党を組むことを禁止する19カ条の定書を定めました。

しかし、結局、家臣団内の対立はその後も収束せず、「前田利長」の死後も続いていくことになります。

家督を幼少の「前田利常(まえだ としつね)」に譲った後は、後見をしつつ富山城に隠居しました。

慶長14年(1609年)に梅毒による腫物の悪化が原因で倒れてしまいます。

慶長18年(1613年)に豊臣方の「織田頼長(おだ よりなが)」が訪問し、勧誘を受けるも拒否しています。

そして、慶長19年(1614年)に病状はさらに悪化し、江戸幕府に京都での隠棲や高岡城の破却を申請しますが、5月20日に高岡城で病没します。

享年53歳でした。



「前田利長」の死に様の信憑性

病死とされている一方で、「懐恵夜話(かいけいやわ)」と呼ばれる加賀藩の文書によれば服毒自殺したという記録が残っています。

また、「前田利長」が死亡した年の10月に「大阪冬の陣」が発生しており、すこし前の同年7月には大阪城で「織田信包(おだ のぶかね)」(織田信長の弟)が吐血して急死しています。

一説では「織田信包」は毒殺されたとされており、同じく「前田利長」にも毒殺説が挙げられています。

まとめ

「前田利長」は、豊臣家重臣「前田利家」の嫡男であり、後に日本最大の藩領を有する加賀藩初代藩主となりました。

はじめ、「織田信長」に仕えた後、「豊臣秀吉」への臣従を経て、最後は「徳川家康」に従いました。

晩年は梅毒による腫物を患い、慶長19年(1614年)の5月20日、高岡城にて病没します。

享年53歳でした。

病死とされる傍らで、史料によれば服毒自殺したと記述されていたり、毒殺されたとする説も挙げられています。

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