「米長邦雄」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「米長邦雄」の死に際とは?日本の人物

不世出の永世棋聖が放った悪手?

それとも渾身の一打?

この記事では「米長邦雄」の晩年と散り際について解説します。

「米長邦雄」とは?簡単に説明

将棋を少しでも指したことのある方なら、まずその名前は知っていると思われます。

将棋界が「羽生善治」時代に突入する前、70年代末から80年代にいわゆる『中原米長時代』を築きました。

その実績と棋士という職業からお堅いイメージを持たれるもの、女好きの性豪を公言。

このことが後々自身の生涯に大きく関わっていくことになります。

教育委員やテレビ審議委員など将棋界以外でも多々露出があった一方で、前述したように破天荒な言動も多く将棋界のイメージを変えた人物とも言えるでしょう。



「米長邦雄」の晩年

2009年1月に自身のブログで前立腺がんに罹患し、放射線治療を行っていることを明らかにしました。

その後はブログで癌ノートと称して闘病記を掲載しています。

将棋界に置いてはボンクラーズ、コンピューターソフトとの対戦。

敗戦を喫した一方でその時の対局を記した自著『われ敗れたり』は高い評価を得ることとなりました。

自身のがん体験をあけすけに話すとともに同年代に対する熟年層のセックスについても問題提起。

他分野で精力的な活動を行いました。



「米長邦雄」の死に様

放射線治療による保存療法は効を奏したかに思えたもの、転移は避けられませんでした。

公式ブログで2012年11月25日と12月2日の二回に渡り「最後の時」のタイトルで自身の人生の投了について話しており、自身の死期を悟っていたようです。

約2週間後の18日午前7時18分に永眠。

69歳没。

死因は前立腺がんでした。

ブログは2日の更新が最後ですが、ツイッターでは6日まで毎日投稿があるため、容態が悪化したのは6日以降だと推測されます。

「米長邦雄」の死に様の信憑性

女性好きかつ性豪を公言していたこともあり、安全マージンを取っての前立腺全摘出に躊躇したことが後日談で明かされました。

がんは転移することになりましたが、前立腺摘出をせず保存療法を選択したことで、QOL(生活の質)を落とすことなく晩年を過ごしています。

また経緯は自身の著書ならびにホームページの日記で公開され、反響を呼ぶことになりました。

没後にホームページは閉鎖されてしまいましたが、男の本質、セックス論について多方面で語り、熟年世代の性に問題提起を行っています。

また治療に放射線治療を選んだ理由やその過程もブログに書き記しました。

男性ホルモンを抑える注射を治療開始する前に一ヶ月に一回、都合二回注射。

テストステロンが一桁になったため性欲が湧かないなど、笑いを交え、デリケートな問題を包み隠さずに明かしています。

まとめ

「米長邦雄」は2012年12月18日午前7時18分に永眠しています。

69歳没。

死因は前立腺がんでした。

前立腺がんだと判明してから、当初は前立腺全摘出を予定していたもの性への執着とQOLを自身で検討し、放射線治療で保存療法を選択しています。

保存療法が功を奏したのかはわかりません。

しかし治療開始から4年以上もの間、精力的な活動をしていました。

その活動は将棋界だけに留まらず、文筆業、そして自身のがん体験を伝える啓蒙活動、熟年層の性問題への意見提起など多岐にわたりました。

タイトルとURLをコピーしました