「小喬」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「小喬」の死に際とは?日本の人物

「小喬(しょうきょう)」とは?

小喬の死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。

「小喬」とは?簡単に説明

小喬は「三国志」に登場する「江東の二喬」と謳われる美人姉妹の妹です。

そして姉の大喬が呉の当主・孫策の妻に、妹の小喬は孫策の盟友で呉の重臣である周瑜の妻となります。

ジョン・ウー監督の映画「レッドクリフ」では中国の美人女優リン・チーリンが小喬を演じてその美貌が話題となりました。

しかし、三国志で小喬が登場するのは「三国志」周瑜伝や「三国志演義」などだけで、正史では小喬の名はほとんど記述されていません。

よって、巷に伝わっている小喬に関する事柄のほとんどは虚構や言い伝えであって史実ではありません。



「小喬」の死に様

上述した通り、小喬に関しては正史には「喬公の娘で周瑜の妻である」としか記述がありません。

よって、生没年も分からず、ましてや死因は全く不明です。

陳寿が書いた正史「三国志」には出てこない小喬ですが、この「三国志」に註釈を加えた裴松之(はいしょうし)という人が書いた「三国志」に大喬と小喬の姉妹が登場します。

それによると、199年に孫策が敵対関係だった袁術の配下の劉勲を討伐した際に戦利品として手に入れるのが、劉勲の支配地の名家である喬公の娘姉妹でした。

孫策は姉の大喬を、盟友の周瑜は小喬を妻(実際は側室)としますが、美談化された話とは異なり、彼女らは戦利品として扱われます。

そして孫策は翌年に、周瑜も36歳で亡くなりますが大喬および小喬のその後の処遇等は一切不明です。

しかし、捕虜の身から側室に、そして未亡人へとなった女性の最期が幸せだったとは考えにくいでしょう。

そんな小喬には墓が存在します。

それも3か所にあります。

1つは湖南省巴陵県です。

ここは周瑜の臨終の地でもあります。

2つめは安徽省廬江県城の西1キロのところです。

東には周瑜の墓があります。

3つめは安徽省南陵県城内にあります。

こちらの墓は比較的新しいものです。

いずれの墓が本物か分かりませんが、2つめの廬江県にある小喬の墓には黄武二年(223年)に47歳で病没し、周瑜の死後遺児をこの地で育てたと書かれています。

真偽はわかりませんが、小喬の死に様に関する具体的な情報はこれだけです。



「小喬」の死に様の信憑性

上述の内容には確たる証拠や確証があるわけではなく、結論から言いますと信憑性はほとんど無いと言わざるを得ません。

ただ、この姉妹は「傾国」の美しさ故、曹操はこの2人を手に入れたいがために赤壁の戦いを起こしたとする「三国志演義」の記述には無理がありますが、一国の当主と大都督に女性を見る目がないとは考えられないため、一定レベル以上の美貌は備えた姉妹だったことは容易に想像できます。

「小喬」の小ネタ等

大喬・小喬の容姿については史料がないため分かりませんが、夫の孫策・周瑜の方は当時の中国における基準においては、「三国志演義」や民間伝承の中から度々男前であったことがうかがわれます。

まとめ

小喬についてまとめると次のようになります。

小喬は戦の戦利品として周瑜に差し出され、周瑜の側室になります。

周瑜は若くして亡くなりますが、小喬はその後も47歳まで生きて、最期は病没しています。

ただし、確証はありません。

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