「前田利政」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈
「前田利政」とは?簡単に説明
「前田利家」の縁者であることはわかっても、詳しいことはあまり歴史好きな方しかわからないというのが「前田利政」に対する普通の方が持たれる印象でしょう。
利政は利家の次男で兄に「前田利長」を持ちます。
豊臣姓を与えられ、羽柴氏をも追加で拝領するなど順風満帆出あった利政でしたが、「豊臣秀吉」の逝去が思わぬ運命の歯車を回しはじめました。
関ヶ原での出陣が禍根となり、兄・利長との縁は拗れ、所領は没収、武将としての前田利政は死んだと言っていいでしょう。
「前田利政」の晩年
前田利政の最後の晴れ舞台は大坂の陣のことでした。
東軍からも西軍からも誘いがありましたが利政はこれを拒み動きませんでした。
その後は悠々自適な生活を送っていたと思われます。
京都の大豪商・角倉家の長男である「角倉玄紀」に長女を嫁がせていたのは勿論のことですが、「本阿弥光悦」と親交があり、その由縁で近世の能書家五人にあげられる弟子で玄紀の父「角倉素庵」とも親交があったからです。
当然ながら大名復帰を母である「まつ」は願っており、その支援もありました。
同じ時期、浪人で困窮し京都で塾を開いて凌いでいた「長宗我部盛親」などとは対照的だと言っていいでしょう。
「前田利政」の死に様
寛永10年7月14日、西暦で1633年の8月18日に長女が側室となった京都の大豪商「角倉与市邸」にて最期の時を迎えたと言われており、享年56歳でした。
京都府京都市北区にある前田家の菩提寺である大徳寺、母の名のついた芳春院に墓所があります。
死因に関しては不明です。
「前田利政」の死に様の信憑性
前田利政の死に関しては、それほど詳細な史料が残されているわけではありません。
長男の「前田直之」が3代藩主「前田利常」に使えた後にまつの遺知を引き継ぎ、順調に出世を重ね「前田土佐守家」をたてたことで、家祖として後年に名を残したこと。
文化人かつ京都の大豪商「角倉家」に娘が側室として嫁いでおり、その邸宅で亡くなったことで、利政の没年の記載が出来事として残されてもいます。
この二つの要素を合わせてみれば、信憑性が高いのは間違いありません。
まとめ
「真田信之」と「真田幸村」のように御家存続のために道を分けたのではなく、大坂城で詰番衆を務めた経歴があり、また家康の加賀征伐の経緯を受け入れられなかったのかもしれません。
兄とは疎遠になり、武将としては1600年にその生涯を終えていると言っていいでしょう。
しかし長男の直之がまつに引き取られ養育されたことから、その跡を残し「前田土佐守家」の家祖としてその名を刻んでいます。
その後は京都嵯峨野に住み、叔父の「前田慶次郎利益」のように文化人と交流を重ね、趣味に没頭していきました。
さまざまな分野において近世の芸術にその足跡を残した「本阿弥光悦」、豪商かつ芸術家であった「角倉素庵」と交流があり、その息子「角倉玄紀」に娘を嫁がせたことで、経済的に不自由もなく人生を謳歌し、満足のゆく生涯だったと言えるでしょう。