「前田利家」は戦国時代に活躍した武将であり、加賀百万石の礎を築いた人物です。
大変な愛妻家であり、破天荒なかぶき者であったと伝えられる前田利家、その晩年はいかなるものだったのでしょうか?
「前田利家」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈します。
「前田利家」とは?簡単に説明
「前田利家」(まえだとしいえ)は1539年(天正7)尾張国荒子村の城主、前田利春の四男として生まれました。
14歳で織田信長の小姓となり、衆道の相手も務めたと伝えられます。
利家は血の気が多い性格で、喧嘩好き、破天荒な言動が信長に愛されました。
槍の名手であり、別名の又左衛門から「槍の又佐」と呼ばれています。
桶狭間の戦いに参戦し、軍功を挙げると信長の悲願である、天下統一へ向けて身を投じました。
本能寺の変で信長が討たれるとその後は豊臣秀吉の側近となり、終生重用されました。
豊臣政権下では五大老の一人に任じられます。
秀吉の死後は遺児豊臣秀頼を守護し、傳役(守役、教育係)として大阪城へ入りました。
「前田利家」の死に様
大阪城へ入城してわずか1ヵ月、前田利家は病でこの世を去ります。
ただひたすら豊臣秀頼の将来を案じ続けた利家でしたが、後事を託した息子利長は遺言に従わず大阪を去り、加賀へ帰国しました。
利家の死因は内臓、消化器系のがんの可能性が高いとみられています。
1599年(慶長4)4月27日没。
享年62歳、大阪で亡くなりました。
墓所は石川県金沢市の野田山で代々の加賀藩主と共に祀られています。
「前田利家」の死に様の信憑性
前田利家の死因はがんとされていますが、異説もあります。
豊臣秀頼の傳役であった利家に対して、徳川家康が刺客を送った、暗殺したともいわれています。
しかし利家は以前から腹部のさしこむような痛みに悩まされており、なんらかの内臓疾患を患った状態で大阪城入りしていました。
暗殺説が生まれるのも当然ですが、病死の方が信憑性は高いでしょう。
余りの激痛に自分で割腹した、とも伝えられます。
「前田利家」とまつ、最期の夫婦愛
前田利家が亡くなる2日前、愛妻のまつは鎖帷子(くさりかたびら)を夫に差し出しました。
まつは言います。
「あなたさまはこれまでに戦で多くの人を殺めてこられました。
この後はどうなるか、それだけが恐ろしゅうございます。
どうかこの鎖帷子をお召しになり、身を護って下さいませ」 利家が地獄へ行くことを心配し、鎖帷子を身につけて逝くようにとまつは願いました。
しかし利家はこれを拒みます。
「多くの人を殺めてきたが、義に背く戦はしたことがない。
もしも地獄に落ちたなら、戦で死んだ者どもをかき集め、閻魔相手にもうひと合戦してくれるわ」 豪気な利家、鎖帷子はまつが着て自分を追いかけてくるように、と言い残したそうです。
まとめ
前田利家は豊臣秀吉への義に生き、正妻まつへの愛に生きた人でした。
秀吉から秀頼の将来を託された利家でしたが、わずか1月で亡くなり、大きな未練を残していたようです。
しかし利家が亡くなり、息子利長が大阪に見切りをつけて帰国したからこそ、加賀百万石の繁栄は実現したともいえるのです。