「佐田啓二(さだけいじ)」とは?
佐田啓二の晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。
「佐田啓二」とは?簡単に説明
佐田啓二は1940年代から1960年代にかけて活躍した俳優です。
同時期に俳優デビューした高橋貞二、鶴田浩二と人気を分け合い、「松竹戦後の三羽烏」と言われました。
1953年に公開された映画「君の名は」でトップスターの仲間入りをし、その後も「喜びも悲しみも幾年月」「秋刀魚の味」などの有名な作品に出演しています。
本名は中井寛一といい、俳優の中井貴惠、中井貴一の父親としても有名です。
「佐田啓二」の晩年
すでに若くしてトップスターの座を確立し、名俳優として確実に名を遺すものと思われるような人生を歩んでいた佐田啓二。
また、私生活でも杉戸益子と結婚した年に豪邸を建て、2人の子供にも恵まれ、まさに順風満帆の人生を送っている矢先で、よもやこんなことで人生に終止符が打たれようとは思いもよらなかったと思います。
「佐田啓二」の死に様
佐田啓二は1964年8月13日から夏休みを兼ねて妻の益子、長女の貴惠、長男の貴一とともに家族で長野県蓼科高原にある別荘に来ていました。
しかし、佐田はNHKドラマ「虹の設計」の撮影があるため、妻と子供2人を残し、8月17日の早朝5時に運転手が運転するトヨタのクラウンに乗ります。
この車には他に新聞記者の義弟とその同僚も乗っていました。
佐田はいつものように一番安全と言われている運転席の後ろの座席に座り、出発するとすぐ眠り始めたそうです。
車は国道20号線を東京方面に向かって走り、6時半には山梨県韮崎市の塩川橋手前にきていました。
運転手は大スターである佐田を少しでも早く撮影所に送り届けたい一心で、猛スピードで走っていましたが、手前を時速40キロで走る個人タクシーに焦りを感じ、その車を追い越そうとアクセルを踏み込んでしまいます。
その地点は左カーブで、しかも塩川橋で道幅が急に狭くなる場所でした。
個人タクシーを追い抜いたところで道幅が狭くなったためハンドルを切りましたが、車がスリップして橋の欄干にぶつかり、さらに他の車とも衝突します。
これにより佐田の乗っていたクラウンは大破し、佐田は瀕死の重傷を負います。
救急車で韮崎市立病院に緊急搬送されますが、治療の甲斐なく午前11時30分頃に息を引き取ります。
直接の死因は光津事故による脳挫傷でした。
享年38。
この事故で亡くなったのは皮肉なことに一番安全な座席に座っていた佐田だけで、運転手他2名は重軽傷を負うも命に別状はありませんでした。
「佐田啓二」の死に様の信憑性
大スター・佐田啓二の交通事故死としてマスコミでも大きく取り上げられており、死に様は大筋合っているでしょう。
ただし、この事故の原因は運転手の無理な追い越しによる運転ミスと言われていましたが、のちになって運転手の居眠り運転が原因だったことが判明します。
しかし、妻の益子は運転手に対して恨み言一つ言わず、子供らにもこのことを告げずにいたそうです。
まとめ
佐田啓二は若くして亡くなったため、往年の大スターでありながら、かなりの年配者の方以外はあまり知られていません。
しかし、息子になる俳優の中井貴一と見比べるとその面影がはっきりと確認でき、改めて親子だったことが分かります。
佐田の演技は定評があり、若くして亡くならなければもっと多くの名作が残せたものと思われます。