「羽柴秀勝」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「羽柴秀勝」の死に際とは?日本の人物

戦国武将の「羽柴秀勝」とは、どのような歴史上の人物なのでしょうか?

おおまかな人生のあらましを簡単に解説して、その晩年・死に様について詳しく紹介していきます。

「羽柴秀勝」とは?簡単に説明

「羽柴秀勝(1569年~1586年)」とは、織田信長の四男で天正5年(1577年)頃に、豊臣秀吉の養嗣子となって人物です。

秀吉に同行した中国征伐の「備前児島の常山城」への攻撃で初陣を飾り、その後も一貫して秀吉方について戦った武将として知られます。

明智光秀と「山崎の戦い」、柴田勝家と「賤ヶ岳の戦い」、織田信雄・徳川家康と「小牧・長久手の戦い」で戦いましたが、天正13年(1585年)12月に病気を悪化させて18歳で早逝しました。

「羽柴秀勝」の晩年

「羽柴秀勝」は父親・織田信長が亡くなってから、義父の豊臣秀吉に従って戦いを進めていきます。

中国大返しで京都に戻った秀勝は秀吉・織田信孝(神戸信孝)と共に「山崎の戦い」で明智光秀に報復し、「清洲会議」では秀吉・三法師側について丹波亀山城を与えられました。

秀吉が執り行った信長の葬儀に参列して柴田勝家らと対立、「賤ヶ岳の戦い(1583年)」で勝家を破りました。

しかし、織田信雄・徳川家康と戦った1584年の「小牧・長久手の戦い」の頃から体調が悪化して、翌年はさらに重篤な病状に陥ったのです。

「羽柴秀勝」の死に様

「羽柴秀勝」は父の織田信長が本能寺の変(1582年)で明智光秀に討たれた後、秀吉と連携して「中国大返し・山崎の戦い」で活躍しました。

しかし、豊臣秀吉が織田信雄・徳川家康の連合軍と戦った天正12年(1584年)の「小牧・長久手の戦い」の頃から体調を崩して、まともに戦陣に参加することができなくなって大垣城で休んでいました。

天正13年(1585年)7月には、従三位から正三位へと朝廷の官位も上昇しましたが、18歳という若さで病床に臥して病状が悪化していきました。

天正13年12月10日に、羽柴秀勝は居城であった丹波亀山城でそのまま病死しました。

享年18歳。

何の病気であったかは不明ですが、前年から体調を壊していたことから感染症・内臓疾患などが疑われます。

「羽柴秀勝」の死に様の信憑性

「羽柴秀勝」は天正13年(1585年)に享年18歳という短い人生を病気で終えることになりましたが、天正12年に羽柴秀吉方についた「小牧・長久手の戦い」の頃にすでに大きく体調を崩して大垣城にこもっていたので病死の信憑性は高いでしょう。

「小牧・長久手の戦い」の途中で大垣城で療養に入ったことは、公卿・吉田兼見(よしだかねみ)の「兼見卿記(かねみきょうき)」に記録されています。

「山科言継の日記(やましなときつぐのにっき)」にも、羽柴秀勝の臨終の時の記録が残っていて、母・養観院(ようかんいん)が秀勝を看取ったと書かれていることからも信憑性があると言えます。

まとめ

「羽柴秀勝」の大まかな人生の流れと晩年・死に様について分かりやすく解説しましたがいかがでしたか?

「羽柴秀勝」は、天正13年12月10日に18歳という若さで病没しましたが、医療が未熟な安土桃山時代において天正12年の時期に何らかの感染症・内臓疾患に罹患したと推測されます。

「羽柴秀勝」の死に様について詳しくリサーチしたいときは、この記事の解説を参考にしてみてください。

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