「おくのほそ道」の作者として有名な「松尾芭蕉」ですが、どのような最期を迎えたのでしょうか?
この記事では、「松尾芭蕉」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「松尾芭蕉(まつお ばしょう)」とは?簡単に説明
「松尾芭蕉」は江戸時代の俳諧師です。
「蕉風俳諧」と呼ばれる独自のスタイルを築き、当時では滑稽さや言葉遊びが主だった「俳諧」を芸術の域にまで高めた功績から「俳聖」と称されています。
伊賀国(現在の三重県西部)に生まれ、父を亡くしたことにより、13歳で出仕しました。
主人が俳諧を学んでいたことから「俳諧」に出会い、主人と同じ先生に師事します。
江戸に移住後、東海道を巡った「野ざらし紀行」の旅を経て磨き上げた感性と作風は、やがて「蕉風俳諧」として注目されるようになるのでした。
「松尾芭蕉」の晩年と最期
元禄2年(1689年)に「松尾芭蕉」は弟子を連れて奥州・北陸道へと旅立ちます。
この年は「松尾芭蕉」が崇拝していた「西行」の500回忌であり、「西行」らの歌枕(古くから和歌に詠まれた名所のこと)や旧跡を巡ることが旅の目的でした。
約600里(=2400km)にも及ぶ150日間の旅を終えた後、江戸に戻った「松尾芭蕉」は紀行の内容や俳諧をまとめ、「おくのほそ道」を完成させました。
元禄7年(1694年)の9月に「松尾芭蕉」は仲違いをした門人たちの仲裁をするために大阪へ向かいます。
しかし、仲裁に奔走する最中、同月10日に頭痛と発熱に見舞われました。
その後、病状は一旦回復するものの、29日には下痢の症状も現れ、体調は悪化していきます。
そして、門人たちから介抱されるも、10月12日に逝去しました。
享年については、正しい生年月日が分かっていないため不詳となっていますが、だいたい49歳から51歳の間とされているようです。
「松尾芭蕉」の死に様の信憑性
門人の仲裁のために大阪へ向かった「松尾芭蕉」ですが、心労がたたって体調を崩したとも云われています。
死因については食中毒や赤痢が挙げられていますが、詳細は定かとなっていません。
「松尾芭蕉」は忍者だった?
齢45にて2400kmもの距離を徒歩で進んだ「松尾芭蕉」ですが、年齢に鑑みるに、あまりにも常人離れしていること。
また、出身が忍者の里でお馴染みの「伊賀」であることから、「松尾芭蕉」は忍者(=スパイ)だったのではないかとする説が挙げられています。
「おくのほそ道」にまつわる旅も、実は幕府からの命を受け、仙台藩偵察に向かったのではないかとも推察されていますが、真偽は明らかとなっていません。
まとめ
「松尾芭蕉」は「俳聖」とも評される俳諧師です。
前例のない斬新な作風は「蕉風俳諧」として「松尾芭蕉」独自のスタイルを確立すると共に、高く評価されました。
元禄7年(1694年)に「おくのほそ道」を完成させた「松尾芭蕉」は9月に大阪へと向かいますが、体調を崩してしまいます。
そして、門人たちに看取られながら同年10月12日、その生涯に幕を下ろしました。